達磨大師は、死ぬ前に弟子たちにこう話しました。
自分はインドから来て禅を伝えてきましたがこれからは弟子が受け継いでくれるだろうと。
そして、禅に対して慧可は髄を得、道育は骨、尼総持は肉、僧副は皮を得ていると話した時、曇林は師父を見て、私はどうすればよいのかと涙を流します。
達磨大師は、私が亡くなったらあなたはお兄さんの慧可について下さい。
最後にいい結果が出ることをよく覚えていて下さいと言いました。
そして大師は色々な話をして、5人の弟子の将来を詩にして送りました。
この詩によって5人の有名な弟子は教えを伝えていくことができました。
達磨大師が亡くなった後、熊耳山の中にお墓をたて葬儀が終わると、曇林は慧可について出掛けました。南や北の皇帝の招待を受け、そこでもいいお経は評判になりました。
そして、達磨大師に毒を盛ったインドの僧侶プティリュウチにも会いました。プティリュウチは慧可の訳した達磨大師のお経を欲しがりました。でもよくない下心が見えたので慧可はそれをあげませんでした。
するとプティリュウチはよく思わないので、慧可の兄弟に対していろいろな嫌がらせをしました。
魏王の高洋を利用し、軍隊の力をもって無理にお経を手に入れようとしました。
しかし曇林は、悪い心を持つ人にお経を渡すわけにはいかないのでとうとうそのお経を火の中に入れてしまいました。軍隊の将軍は怒って曇林の腕を切ってしまいました。
曇林は大切なお経を守るために自分の命をかけたことで腕を失ってしまったのです。
禅を守り伝えていくことは本当に大変なことでした。
達磨大師は毒を盛られて亡くなりました。
慧可の兄弟たちも禅を伝えていく中で色々と大変なことがありました。
達磨大師5人の弟子のうち、道育だけが少林寺の中で何百歳までも一番長生きをしましたが、慧可と僧副は同じ頃、広州で亡くなり、尼総持は永泰寺で亡くなっています。