少林寺には、六祖の時代に六祖闘法・六祖乱法というお話しがあります。
これはどういうことでしょうか。 この話しは、中国仏教の歴史・哲学史で五祖の弘忍、弟子の神秀・慧能たち のことで、千年以上前の哲学思想の大きな発展につながりました。
慧能は、まだ小さい頃にお父さんを亡くし、母親とふたりで 南の南海というところに住んでいました。家庭は非常に貧乏で、 慧能が働いて母親を養っていました。そういう状態の中でも、 小さい頃から仏教とは縁がありました。 ある時誰かのお経を唱える声を聞いてから、仏教を学ぶために 師を求め、みんなの推薦で黄梅県の東山寺に行き、 そこで禅宗の五祖弘忍に出会います。これが後によい縁だとわかります。
慧能が初めて弘忍に会った時、すごく面白い会話をしています。
弘忍は慧能に聞きました。 「あなたはどこから来て、そして何をするつもりですか?」
慧能は、「私は南の方の山の人間です。 ここに来たのは無になりたいからです。」と答えます。 弘忍はわざと言います。 「あなたは南の人です。背が小さく見かけも粗野な印象です。 なにもここまで来て無を学ぶ必要はないのではないですか。」
慧能は、「人の出身には南と北があります。でも、仏性には 南と北のへだてはないです。」と答えます。「 なぜ南と北にわけるのですか? 和尚と私もわけられるのですか? 南から来た人でも、たとえば山に育った野性的な人間でも仏性には差別がないですから。 和尚が無になれば、私でも当然無になることができます。」
五祖弘忍は、これを聞いて仏教の理解があると思い、慧能をお寺に入らせ 台所仕事を与えました。お寺には、弟子たち700人と大勢がいます。 慧能はほかの弟子たちと、大人数分の食事を作らなければなりません。 それでもすごく頑張って、絶対になまけませんでした。
慧能は、まだお経の勉強に参加できなかったので、仕事中に字の読める 人に頼んではお経を読んでもらっていました。 みんな交代しながら読んであげていたので、読む人はその間は 仕事を休むことができました。 慧能は仕事をしながら読んでもらって、 そして自分が理解した内容をみんなに解説してあげました。これは仕事をしながら勉強も出来て為になりました。
そうして勉強しながら毎日仕事も続けていた慧能は、 お経の字は読めなくても、中身の理解はできているので まわりからは尊敬されるようになります。
ある時、「あなたは疲れないのですか?」と聞かれた慧能は、 少し笑顔で「私の仕事の疲れは、仏教の無の行の中に全部溶かしました。」 と答えます。慧能は悟りにいました。
ある日、慧能が台所でいつものように皆さんにお経を解説していました。 定中生慧の関係を話していた時、ちょうど窓の外を通りかかった弘忍は これを聞いていました。そして最後に中に入ってきて皆さんに こう言いました。「仕事も頑張ってきちんとしながら、 みなさんも慧能と一緒に理解が深くなるのでいいことです。」 そして、慧能の慧と能対しての理解は深いことから、この時 慧能という法名を授けました。慧能は、とても感謝しました。 そして、台所仕事はもうしなくて、仏教の勉強をしていいです と許されました。慧能は毎日みんなと一緒に、弘忍のお経を 聞くことができたので、どんどん理解を深めていきました。
ある日、弘忍は自分の後継者を選ぶため、禅を詩で表現するよう 弟子たちみんなに宿題を出しました。弟子たちの禅に対する理解の 深さを知るためです。これが六祖闘法です。
一番最初にできたのは神秀という弟子でした。神秀は、弘忍の弟子に入り 6年間も台所仕事や大変な労働を続けてきました。 仏教を学ぶ前からも、勉強に励み読書家でもあり、知識も才能もありました。 弘忍の教えをよく受けとめよく考えて勉強し、理解もできていました。 すぐに詩が出来た神秀には、お寺のみんなも驚きました。
でも、慧能はその詩はそんなにすごいことではないと言い、自分の詩を 発表しました。字が書けないので他の人に頼んで書いてもらったものです。
神秀が書いた詩は、 「人間は仏教によりだんだんと清浄になり悟りに近づいていく」 という内容のものでした。そして慧能が書いたものは、 「人間にはもともと仏性が備わっていて清浄なものなのです。 そして本来は空と無の状態でなにも存在しないのです。」 これは”明心見性”という仏性の状態です。
弘忍は禅を悟った慧能を呼び、自分の転法の法規や服を渡しました。 そして禅の教えを伝えるようにと送り出しました。 慧能は広州に行き、10何年間隠れて住んでいました。 その後、色々なお寺に行きよい評判を得ました。
慧能の伝えかたは、達磨大師のやり方とは異なるものでした。 達磨大師は面壁坐禅です。でも慧能の場合は、坐禅だけではありません。 たくさんの勉強をして色々なことを聞いて、そして自分の本性を認識し、 仏教の道理の理解につながる。自性は清浄になり、修練は自分の本性、 自分の仏性を表わす。
仏の道、本当の仏とは自分の中にあります。
慧能の教えは世の中に受け入れられ、達磨大師の禅宗は ここから大きく発展していきました。 一方、神秀は玉泉寺に20年間住み、色んな所で弟子も増えました。 そして則天武后に招かれて、道場を作り高い地位も与えられました。 国師になり権力ももちました。 神秀が死ぬ時、皇帝にむかって、慧能を連れてくることは 国の為になりますと話しました。皇帝の使者を出し着る物や 色々なものを与えましたが、慧能は行きませんでした。
こうして慧能は南に残り南宗禅を立てました。 神秀は洛陽で北宗禅を広めたので、この南北に分かれた 状態は歴史上の六僧乱法ということになります。 そして慧能の南宗禅からは五家七宗が生まれることになります。 七祖神会と続き、その後を浄存和尚が少林寺に戻って 南宗禅を伝えていくことになります。