禅は、今、全世界で広く知られています。
これは、長い歴史の中での、たくさんの禅師たちの努力の結果です。
もともと禅を勉強するとか、悟りの人は、解っている事ですが、禅は、禅である。もともとの存在ですから。
本当の場合は、禅は、改めて話す必要は、ありません。なぜかというと禅は、人間が、本来持っているものですから。
でも、もともと本来持っているものに、修行や練功と、禅のことを話す必要が、あります。
禅師の教えにより、人々は、禅について解ります。
だから、禅の歴史・道の歴史が、あります。道もそういうことです。
禅も道も、もともと宇宙に存在するもの。話す必要は、ない。話しても説明は、出来ない。
でも、仏陀とか、達摩大師とか、六祖を始めとする歴代の禅師による悟りと教えによりだんだんだんだん禅は、広まりました。禅の歴史は、こういった人々の積み重ねてきた歴史であるとも出来ます。と同時に、禅が、自然に必要とされ、自然に広まったとも言えるでしょう。
これは、禅の世界の中の道(どう)です。
実際にこれは、どういうことかを考えてみましょう。
例えば、達磨大師は、昔インドから中国に来ました。しかし、当時、誰も達磨大師を知らないし、誰かが、達磨大師を中国に呼んだわけでは、ありません。中国政府も呼んでいません。
中国政府が、呼んでいないのに、なぜ、達磨大師は、中国に来たのでしょう?
これは、やっぱり、達磨大師の使命とか、信念とか、自分自身の内側からの思いや考えから自然に中国に来たのでしょう。
達磨大師は、はじめは、中国各地を転々としましたが、最後は、少林寺に辿り着きました。
少林寺に入っても、はじめは、皆さんとなかなか考えが合いませんでした。
そこで、九年面壁をして修行をしながら、チャンスを待っていました。
そんな達磨大師をみて、当時人々からは、随分執着のある人だと言われたかもしれません。
しかし、周囲の人々が、自分に対して何を思おうと、達磨大師は、自分自身の信念を貫き通します。
そして、最後は、達磨大師のお経によって伝えた禅は、中国全土へと広まり皇帝からも厚い信頼を得ました。特に弟子の二祖慧可も全国を講演して歩き評判となりました。達磨大師も全国の国師となって禅を広めました。仏教のリーダーとして国師となり、禅を全国に広めたことは、実際、自然の気力があったからです。一生懸命な努力で、一生懸命に広めた結果です。
皇帝からの評価で、全国の国師となったのも自然な結果です。
しかし、達磨大師に対して、随分と野心がある人だと責める人もあるかもしれない。
達磨大師が、最後、亡くなった原因は、同じインドの高僧による毒殺と言われています。
(これについては、少林寺の秘話をご覧ください。)
達磨大師は、相手に非常に厳しかったので、相手は、自分の面子を潰されたと思い、達磨大師を殺してしまったのです。
この出来事を、ある人は、達磨大師は、なんて性格の悪い人かと非難するかもしれない。
もし、相手に対して厳しく怒ったりせずに、寛容であったならば、命まで落とさずに済んだかもしれないのにと思うかもしれない。
でも、私の思っている達磨大師像は、まさにこれこそが達磨大師です。
何十年間も中国で、自分自身の信念を貫き通し、布教をした。執着では無く、野心でも無く。
最後は、同じ信念で、相手の間違いを厳しく正した。これは、相手のために行ったことです。
ですから、達磨大師のこういう性格だからこそ、世の中に禅は、広まったのです。
日本では、これに対しては、なんとなく間違った理解をしているところがあるように思います。
変な話は、他人と喧嘩、戦うところから生まれたのです。
今、私は、いろいろな人に対して、話も全然気を付けないで、何でもストレートにいう
禅は、禅の本質で解る。でも、この中に努力が、必要です。この努力は、逆にその人の悟りです。
この悟りは、自分のためにではなく、相手のためならば、自分の命さえも投げ出す覚悟。
これは、達磨大師の本質です。ガンジーや空海もそうです。
たぶん、皆さんのまわりで、日本でもアメリカでも、たぶん、こういう人に時々会うことが、出来るでしょう。
その時に、もし、その人に対してただ野心や執着と思ったら、たぶん、永久に本当の禅、本当の心は、解らないでしょう。禅を勉強しても、その深い本質まで理解できずに、ただの楽しみのためだけとなるでしょう。
達磨大師も仏陀もガンジーも空海も、自分自身の楽しみのために、その人生を生きた人ではありません。その命の全ては、世の中の他人のために、本当に正しいものを伝えるために、努力しました。当然、皆さんお坊さんですから、自分自身の人生の他のものを全部捨てて、家庭も捨てて、個人も捨てる。
そういった、歴代の禅師の努力の結果、今のような禅や仏教が、広まり世界中に伝わりました。
現代、これらの禅や仏教の教えを学ぶ者は、これらを人類のために歴史に残すため、自己を捨てて生きた人々に対して、感謝の意を持って、教えをありがたく学ばなければならない。
全人類の財産といわれる歴史を残した人は、すべて、そういう性格の人です。信念を持ち、個人を捨て、世の中のため人のために命の全てを捧げた人です。
ですから、もし、みなさんが、禅でも道でも、そういう面で興味を持ったら、禅の内容や禅の歴史に流れる精神も合わせて意味のある勉強を続けていって欲しいと思います。