道元は縁があって続けて天童山で悟りの修行をしていたときに、
こういうことがありました。
ある日、道元は他の人と一緒にひとつの同じ部屋で坐禅をしていました。
すると如浄禅師が道元の隣の修行者に
「坐禅はこういう座りじゃないですよ! 本当の坐禅とは一回座ったら、
最終的に自分の身心は脱落します。この意味は、全身は全部なくなります。
あるいは身心と世界はみんなきれいに完全になくなります。
これは本当の坐禅です。本当の坐るです。」と急に叱りました。
道元はちょうど自分の修行の臨界点でした。この話しを聞いたら、
瞬間に電気を受けたように急に悟りました。本当に身心脱落の世界を体験しました。
だから本当の「只管打坐」はこういうことです。

でもわたしたち普通の人はどうでしょう。
自分の希望や愛や恨みとか与えることや貰うことなど
心の中に持っているものは、もう坐禅の中に出ています。
そういう状態の時には「只管打坐」の本来のものとは相応できないでしょう。
本当の坐禅は、心の中でこれほど坐っている、自分の心の中には仏もないし
衆生もないし、明もないし、世界のすべてのものは坐禅の前になくなります。
何かあっても反応もなくなります。これは「只管打坐」の禅法でしょう。

昔の禅師の祖師は、その人の悟りの層次を十個の牛の図で表わしました。
十牛図の第三は牛を見る「見牛」で、これは明心見性の見性です。
でも、見性が終わったらあとまだ七つの段階を登らなければなりません。
だから初めての悟りは最初の段階でした。
道元の昔の悟りはあくまでもこの第三の段階だと思います。
そして今回の如浄禅師の指導によって本当の悟りの道を走っています。
だから道元は今回また悟りになった時に、
すぐに服を着てお香を持って管長室に行き、如浄禅師にお礼しました。
昔は、弟子が用事もないのに勝手にお香を持って管長室に行くことは許されませんでした。
この時、お香を持ってきた道元を見て如浄禅師はすぐにわかりました。
道元は身心脱落と答えました。

如浄禅師は「あなたはもう本当の悟りになりますよ。」と喜びました。
そして道元は如浄禅師のところで二年間、悟りのあとの修行と勉強をしました。
道元が帰る前に、如浄禅師からのただひとつの言葉はこうでした。
「禅法を広めることは一生で、自分の道骨を失ってはいけない。」
意味は、自分の精神を残します。王室や政治とはつながりません。
曹洞宗の厳しい宗風を守って、禅の脈は切れない様にもし天縫の弟子がいればいいでしょう。
道元は日本に帰ったら、師のこの言葉は一生で守りました。
自分の弟子をもち、京都から離れ人の少ない今の福井県に永平寺を建て、
いい結果になりました。

だから「只管打坐」ということに、現代人は何となく喜びますが、
坐禅のときの心の中はすごく純粋な気持ちでということがあります。
実際は道元の本は読んでいなくても、この言葉はすぐ受け入れられます。