禅は仏教から来たものです。
禅の中で具体的に世の中で目で見えて触れて感じられるものは、
中国・台湾・東南アジアでは次の3つのことがあります。
それは、情、意、智です。

情は、性情、感情など気持ちのことです。
意は、意識力、禅定力、知は自分の理性、知性による判断力のことをいいます。
このことは孔子の智・仁・勇の三徳と似ているところもあるかもしれません。
この3つはどのようにすれば鍛えられるものでしょう。

情の場合は、個人の道徳、人間性の質あるいは慈悲心、大仏の愛心など、
心の優しさや他人の恩を忘れないということがあります。
他人の情はよく覚えていて、信用を忘れず約束を必ず守ります。
そして他人への文句や言い訳はしません。
もし、難しい結果が出ている場合でも、これを受け入れ自分の苦しみも受けます。
道徳と利益では、利益よりも道徳を中心に考えます。
相手の悪い面は自分にとって良くないことだと思わず、相手の恩を思います。
この目的は、人間の性情の面についてであり、有情有義があります。
だから、禅の修行をするには、まず人格をしっかりすることが大事です。
禅と武や少林寺の精神を学ぶ前に、まず人間としてどういうふうになるということが先でしょう。
これができてから他のものに進むことができます。

次は意の訓練です。これは計画、意学、禅の経験の学問です。
この目的は、人間の心はいつでも根拠は安定するということです。
この安定は、自分が決めたことは根気よく続けます。
静かな心を持ち、社会や他人やいろいろなものに対しての慈悲心があります。
例えば、自分の使命に向かっている時には、食事もしないし睡眠もしません。
これは不安定からくることではなくて大きな努力の意味です。
目の前の利益にとらわれず、自身をコントロールできるということがあります。
気をつけなければならないのは、精神が散漫になることについてでしょう。
何となくこういうふうにやりたい、でもああいうふうにもやりたい、
と方針はすぐに変りやすく、結局は何をやるのかわからない状態になり、
心はどこに置いてあるかわからなくなり、自分の心理は平常にできないということには
注意しなければいけないでしょう。
また、根気と忍耐力が足りず、意思の力が弱くなり苦しみや難しいこと、面倒くさいことを
怖いと思ったり、忙しい時には、すぐ疲れると言ったりあるいは焦ることもにも気をつけます。
暇な時には、自分は寂しくて心は落ち着かない状態になってしまうと
自分の意識はその行動の中に入れません。
だから、理性はその時にないでしょう。
基本的には何でも自分の信念の為に一歩一歩しっかりと最後まで進むことです。
でも、その時に少しでも利益に目がいってしまうなどの油断はいけないでしょう。

そして智について、利口と智慧の訓練です。
主に客観的な判断力といった独立した考える力があります。
特に訓練を受けた禅者にはそれが見られるでしょう。
この世の中にはいいものも良くないものもあります。
この知の訓練ができたなら、そういうものに対しての判断力がつきます。
何となくこれはニセモノなどと思ってはっきりとした結果が出ていない場合でも、
世の中の評判や証明できないものには自分の心は左右されません。
名の有る人には尊敬し興味をもっても、その内容については
本当の自分の心からしっかりした研究や体験から判断します。
何か見てもすぐにこれは本当だと軽く判断したりしないものでしょう。
智慧の訓練はそういうものです。
この意味は、自分の生命の本質と人間の本来のものの観察と悟りができます。

この情と意と智のバランスは禅者になるには大事なものです。
一般的には2つの方法があります。
ひとつは修行してだんだんとわかっていくこと、もうひとつは急に悟りになるということです。
自分の生活の中の実体験で、少ないところからだんだん多くなり全体的に修行となります。
そうすると理論も整理され思想になり正確になります。
急に悟りは、禅者は直接の心に向いて悟りになり、
本当の心が見えて世の中はそういうことだとわかります。