悟りになるための修行がなかなか進まなかったり、
思う通りにいかない時の原因と越える方法のお話しです。
悟りに近づこうと少林寺の禅を学んでも、
苦しさから次に開拓できないときは一般的に次の原因があります。

第一に、本当の悟りは自分はまだ解からない。
悟りとは、皆それぞれが持っている心の本体ですから。
普通、人は自分の感完と予防の満足のために忙しいです。
そうするとその心本体にはいろいろと埃は付いています。
長い間で埃が付いているということは本来の顔は見えません。
でも、私たちの心の中が一番単純で一番解放されている
元々の状態の時には、自分の手相みたいにはっきりと見えます。
だから、もしこれが見えて自分の本当の心の状態や
悟りが解かったら、もっと高レベルに入ります。

第二は、例えば少林寺の禅を習うのに対して、
知識や信頼感が足りない時です。
そうすると自分の心の中のことは師に対しても
言わないでしょう。実際は悟りの修行方法は
すごく難しいことではないです。
でも、仏教では人間の業は結構深く重いものですから。
そうすると意識の上に仏教の三毒-貪、瞋、痴-は、
習慣的にあなたの悟りに抵抗するでしょう。
もしそういう状態になったら、瞑想の練習の時に
どの様に対応するか、先生とよく話します。
そうでなければ、病気の回復も修行も進まないでしょう。
よく話すことですが、やはり少林寺の修行を本当に
最後までできるということは、本人の人生観の問題もありますよ。
第一で話した埃をとるということは、すべて人生観で決めます。
だから、これはただ修行の方法だけの問題ではなく、
そこから変わることは必要です。

そしてこれらをどの様に乗り越えるか。
悟りになると、まず乗り越えることは必要です。
ひとつは、解からなければ質問します。質問しない
とあなたは判らないでしょう。だから、具体的に
あなたを指導するのは、師も難しいでしょう。
禅とは、つまり生活の中の智慧ですから。
あるいは経験もあります。もしあなたが何か質問が
あったら、本当のわかる師は、ひとつあなたに
方法は教えます。もうひとつはあなたの本当の質問には
答えられます。いろいろな悩みや苦しみなど皆喜んで
答えることは当然でしょう。だからそこに遠慮は必要ないと思います。

そして、悟りに対して正しい考え方を持っている人は、
その人はどの様に変わるでしょうか。もしかしたら、
逆に普通の人になることもあるかもしれません。
その人の生活意識、興味、喜びや怒りの感情や表情は、
普通の人と違わなくなります。
でも、わざわざ姿形を作っている場合、そこには何か
目的が存在しているでしょう。そうすると逆に
それは悟りではないでしょう。
悟りには表面的に大きな違いは見えないという、
形からの表現の特徴があります。