アメリカで気功のことや禅のことなといろいろ聞いてきました。
ちょっと調べてみたところ、現実的には昔は禅だったが今は道です。
私は、全米気功協会のトップの方の考えを聞いてみました。
禅は普通の仏教であり無ということです。
ただ、話しは世の中の全部はなくなる無のことではなくて、
あるということでした。全体では道という考えのものですから。
禅と道に対してはなんとなく表面的な感じがしました。
ニューヨークで道教気功の学校を作る人は、自身も25年以上の
期間で気功を学んでいて結構技術レベルも高い方にあります。
太極拳や気功演舞の審査員もつとめるほどです。
DVDや本なども数冊以上の出版もしました。
私たちの表演も誉めてくれましたが、実際、本人は禅と道との
関係などで悩んでいる状態でした。
夜のパーティーでお話しもなんとなく聞きました。
何十年か前にひとりの日本人が禅を教えたことがあるそうです。
その時には、心が無の状態は禅という話しだったそうで、
その時の教えから心は対立している状態のようでした。私は、
こういうことは禅の話しと道の話しは、ただ理論的知識的にある
だけではないですよとお話ししました。例えば、もし禅の体験をした
ことがなければ禅の話し確かに非常に難しいでしょう。あるいは道の
状態に対しての理解も同じく、禅や道に対して本当にわかることが
できなければ、自然にこのふたつのものは概念感になります。
逆に分裂のことは、仏教から禅ということ、道教は他からですから、
この二つは歴史から団結の場合もありますが戦いの方が多かったのです。
でも、少林寺の禅あるいはそれ以外でも私の考えは、
禅の話しと道の話しは、ただ一般的に概念や修業方法だけのものではなく
最後の状態のことです。実際、ニューヨーク創立の学校運営者に聞いた
ことがあります。あなたの話しでは道だけ、何の為に道の気功例えば
道教気功の最後の状態への修行をするのですか?
その人は円満回答はできませんでした。
これは当然に禅にも言えることです。もし最終目的あるいは
最高の状態になるとどういう状態ですか?たぶん禅の気功でも
道教の気功でも最後の状態は同じでしょう。なぜ、同じでしょうか?
例えば禅の最後の状態とは、はっきり言って言葉での表現はできません。
だから、禅宗の有名な言葉は「不立文字」今、言葉で表現はできない。
もし禅の状態を言葉で表現ができたら禅じゃない。老子の道も同じですよ。
私たちの理解の概念の道を考えたらそれは本当の道じゃない。
道も言葉で表現はできない。できたら道ではない。
こういうことから実際は禅と道は同じものですよ。ただ、出発点としては
禅は主に人間の生命、精神や心に向いている話しです。道は主に自然の規律
あるいは宇宙構造とか自然存在の角度からスタートします。それだけです。
始めのスタートするところが違います。でも最終は同じ。
新気功理論の新病気理論の中の多層次意識の第六意識は禅の状態です。
あるいは老子の道の状態でしょう。だから最後に心身統一や
人間と宇宙の統一というのは、禅あるいは道の状態であり
禅と道の統一でしょう。
こういうことは本当に理解できたらわかりやすいものでしょう。
私の考えでは理論的に本当の禅はそういうところです。
山登りで東からスタートしても西からあるいは北からスタートしても
山の頂点には東からとか西からとかという区別はないですよ。
だから本当の禅もそういう状態です。