人類の文化は、この二百年間で非常に激しい変化がありました。
この変化の幅は、世界のほとんどの国において、社会的、政治や経済そして文化面で
二千年の期間よりももっと大きいものだったかもしれません。
禅の話しは大昔からありました。
この激しい変化の中で、伝統文化と現代文化にはさまれている
現代人だからこそ、禅に対しての表現として現代禅の言葉があります。
生活禅があり、わたしたちの学んでいる気功禅というものもあります。
でも禅は、現代向きとか生活の中のものや理論的なもの、あるいは気功のものとか、
どこの方面に向いてとか専門や分野などそういうものではありません。
禅は実際は禅のことであり、すべてのことに向いて禅です。
理論的に細かく分けてはいません。
ただ、入りやすい解りやすい説明のために、現代禅などの話をしています。
中国には昔から禅の文化があります。
特に、少林寺の禅には歴史からの流れがありますから、この流れにはもちろん意味や理由があります。
今は日本でも結構禅の人気があるでしょう。
現代ではいろいろなお寺で現代の禅についてのお話しもあると思います。
でも、ただいいものだから、いいと思うから受けられるのではなく、
社会の中できちんとした価値観、社会的に認められる人間としての基本的教養や
あるいは修行においての姿勢そしてそれを持てる素質以上でないと
禅については何も言えません。
これは、私達が禅や少林寺の精神を学ぶということ、
または気功を習うとかの前に、まず社会的の基本的の教養と精神修行が必要です。
こういうことがなければ、上の禅については言えません。
禅になる、あるいは少林寺の精神になるということは、まず普通の人間であることが大事だと思います。
社会的に評判を上げられる人間になるには、社会と合わせていくことが大事です。
社会と離れたら、そして社会と全然関係できない場合は、
いくら禅の話しをしても、それはただの言葉遊びになります。
もちろん社会にはいいものもよくないものもあります。
だから社会のいい所に合わせて、もっとその上に上達して成長して
さらに少林寺の禅が出来たなら、それはいいことだと思います。
社会的に生きていける素質を育てたら、
本当の禅の修行の時には、間違いや遠回りなどし難いと思います。
中国や台湾、東南アジア、日本でも禅に対してはいろいろありますが、
この話しは、ただ一時的なものではなくて人間性はどこまで育てられるかということです。
社会的に地位のある人間でも、禅に対してなどある程度の話しはできると思います。
でももし自分に何か起きたら、問題があったら、禅の通りに実行するのは
なかなか難しい場合があります。
だから、やはり修行は必要なものだと思います。