少林寺の禅がいい状態になるためには、ひとつは聞く・ひとつは思・修証の過程があります。
この順番が一般的な流れになりだんだん深くなります。
聞の慧の意味は、例えばいろいろの授業や勉強や朗読は、自分の信念とか信念の縁は行なうなど
始まりの状態です。当然に毎回ここから始まります。
禅の始まりのまず基本的な道理は、自分は初めはまず聞くということです。
次は思の慧、禅の話しの時に必ず、空と静という言葉があります。
あなたもこれを思ってその状態の時に自分の判断はだんだん出ています。
この判断で日常の悩みとかあるいは坐禅の時の雑念などを消します。
初めて勉強するものは具体的に応用します。そうすると禅に対していろいろ利用して対応します。
次は修の慧。あなたは練功の時に雑念や悩みが出ています。
練功や思によって自分のこういう道理は非常に解ります。
こういうことに対して考えなくてもすぐ解ります。
なんのことが空ですか、なんのことが禅ですか、なんのことが静ですか。
判断とか考えは必要ありません。そして空の状態をすぐに感じられます。
なぜか。あなたは瞑想の時にそういう状態が表れていいます。
実際、例えば禅とか空の概念は身に付けています。あるいは現実の生活の中に、
この空の状態は応用しています。
例えば、あなたはお茶を飲む時、料理をする時、いろいろ何かをしている時、
お茶は何の為に飲むとか実際は考えていないでしょう。
その時にあなたの心は非常に静かな状態です。
心は静かな状態で考えていない時に、こういうこと一切をやっています。
この状態に出ている感覚は、修行からの智慧です。
でも、この第三の段階の状態でも まだ成果が出たとは言えません。
なぜ? こういう集中の時の力はまだ出ていません。自分はただ感覚は出ていますが、
縁とか空とかそういう概念が解るという知識だけです。
例えばあなたは静功で坐禅をしますが、これは一つの方法です。
概念は解かり応用できて自分の身体に染み込んでいますが、有形の状態です。
形は有るのものは自分の心の中に残ります。
自分の身体の中にある、この概念はある、そういう意味です。
秦先生から教えてもらったことがありますから、ああこれは少林寺千五百年のものだと知っています。
それを信じてそういうふうにやっています。
でも、自分は少林寺のそういうものを実際に確かに経験して
自分の目で直接見ることはまた違うでしょう。これの意味は証です。
自分の人生、生活から自分で確かに証明して確かにやったことがある、
これは絶対の経験になり、実際に両足でこの土地に立つ事実を感じられるでしょう。
そういうことは疑いたくても疑えないものです。これは証の状態です。
この状態から、また続けて修行するとさらにその内容は深くなります。
定またはもっと深いすべての生に対しての愛の気持ちがもっと出てきたら、
自分の行動で証明して本当に解かるようになります。
それからどんどん深く修行して、人類に対しての気持ち、
自分自身の命も解かったらもっと高いレベルの所に入ります。