前回は、”本当の禅は日常生活の中で練習する”という方法について話しました。
第二の方法はもっとわかりやすいと思います。
これは、自分は過程(途中・段階)に生きているということです。

私たちは目標に向かって生活していることがあります。
でもこの目標までの途中段階のものは忘れてしまうことがあるでしょう。
例えば、電車に乗る時の目的は駅まで着くことです。忙しいですから急いで駅に向かいます。
でも、途中の道で景色を見たり、面白いことを考えたり、
気功の面白い練習方法などすることは忘れてしまいました。
また、お茶を飲む時では、いれる時や運ぶ時の途中のことは忘れました。
仕事のことでは、生活のためだとか会社の決まりだとか結果的なものを見ていて、
仕事の面白さや楽しさを忘れました。

こういうの人の生活は何となくすごく苦しいと思います。
目の前の瞬間の美しさや瞬間の意味がある生活ができている人は、
この過程の中で途中生活しているでしょう。
目的があって、途中のことの楽しさや意味が完全に解ることは非常にいいと思います。
人間は、目的とその目的の到達前の途中段階も全て一体になり、
その位置の中に生活したら非常に面白いと思います。
もし、この位置の世界に入ると、当然に零もわかります。空もわかります。
零と空を解るの意味は、個人個人やひとつひとつのものは通じたら一つになり、
ひとつになると絶対自分は空になることができます。この言葉の微妙なところは各自次第です。

実際、私たちが修行をやっている中で例えば気功をやる時もそういうものです。
ある人は気功をやる時に、目標を作ることはいいですが、
達成するまでの途中の努力など面白さを表わすのもそれでいいと思います。
もし、目標だけを見て練習する人は逆に別の道に行くかもしれません。
例えば、将来は潜在能力を高めるとか、癌の病気を治せるようになるとか、
始める前にこういうことに非常にこだわると、考えに集中してしまってなかなか入静ができません。
結果的に目標にあまり進まず、焦ってしまうのでしょう。
落ち着いて練習できずに、諦めてしまい続けられなくなることもあるかもしれません。
根本的な目的が正しくないと逆に悪性用になってしまうかもしれません。

また武術の面では東洋と西洋の根本的な違いがあります。
西洋の方は、とりあえず試合が重要です。誰と試合をしてどういう結果がでるか。
でも東洋の方は、試合の結果よりも武術の練習中に本来のものがあります。
練習によって身体を作ることに楽しみや面白さが出ています。
西洋の場合は、リングでの試合の結果にも意味がありますが、
薬を注射して健康を損害しても目標達成する話しも出ています。

練功とかスポーツでも武道でも仕事の中でもそういうことがあります。
もし目標が高すぎたら、達成のために手段を選ばなくて、
すごく悪い手段を使うことも平気になってしまう場合もあります。

だから、途中の段階、過程の中に注意して生活することが大事だと思います。