少林寺を訪れた人々はまず山門をくぐり、碑林(ひりん/注意:石碑が数多く建っている場所)を通って、新しく再建された天王殿の前に到着します。中国の一般的な寺院の天王殿には、ふつう四天王(してんのう)がいるのですが、少林寺には高さ5ートルあまりで、上半身裸の「金剛力士(こんごうりきし)」の像が立っています。この二人の金剛力士は、目を怒らせた憤怒(ふんぬ)の形相で、頭には宝冠を載せ、右手には金剛杵(=こん棒のようなもの)を高くかかげ、左手は手を広げ、両足はふんばっています。このように、全身の筋肉は緊張しており、今にも戦うような形相(ぎょうそう)をしています。左側の像は皮膚が赤く、眉をしかめ、大きく口をあけていて、大声で「はーっ」と怒鳴っているようです。また右側の像は、皮膚が青紫色で、眉もしかめてはおらず、鼻の穴が大きく開いていて「ふん」と言っているようです。この二つの像を中国人が見たならば、すぐに「封神演義(ふうしんえんぎ=小説の名前)」に出てくる「クゥォン、哈(は)」二将である「鄭倫(ていりん)」と「陳奇(ちんき)」だと、すぐわかることでしょう。この二人は、もともと古代中国の「殷(いん)」の時代に紂王(ちゅうおう)の元で働いた大将でした。後に、道教の最高神である「玉皇大帝」の玄関を守衛する将軍となりました。では、どうして別の宗教である道教の神様が、仏教である少林寺の天王殿にいるのでしょうか?本来表で守っているはずの四天王は、金剛力士像の後ろにいるのはなぜでしょうか?これは、中国に仏教が伝来した歴史に、深い関係があるのです。
仏教が、漢の時代にインドから中国に伝えられると、中国では仏教と道教の間でどちらが正統かということが長い間争われました。北魏の太武帝の時代38年に、嵩山(すうざん)中岳廟(ちゅうがくびょう)の道士(どうし=道教の僧)である「寇謙之(こうけんし)」と朝廷の大司徒(だいしと/役職名)である「崔浩(さいこう)」が、太武帝に対して仏教を攻撃する申し立てをしました。このことがきっかけとなって、仏教弾圧が始まったのですが、これが中国における「三武一宗(さんぶいっそう)」の法難の始まりとなりました。
西暦452年に太武帝は崩御(ほうぎょ=亡くなる)し、文成帝(ぶんせいてい)が皇帝になりました。文成帝はもともと仏教徒だったので、仏教弾圧を中止して、復興させるよう命令しました。その後の「孝文帝(こうぶんてい)」は都を大同(だいどう)から洛陽に移しましたが、仏教保護策を取ったので、非常に盛んになりました。少林寺は、この時代に建てられています。北周の武帝の時代、仏教と道教が争ったのですが、その結果両者ともに弾圧されました。皇帝はこの弾圧を通して、道教も仏教も社会に深い影響を及ぼしていることを知りました。そこで両者の対立をできるだけ緩和して、共存していけるように、「通道観(つうどうかん、注意:「観」は道教の寺院)」を作りました。仏教徒道教の有名人1200人を「通道観」にいっしょに住まわせ、「通道観学士」と呼んで、衣服や冠なども与えました。そして、仏教と道教、儒教の内容が全部入った「正教経義(せいきょうきょうぎ)」という本を作成したのですが、ここから仏教と道教の融合が始まったのです。そして、「クゥォン哈(は)」二神将や、托塔天王(たくとうてんのう)、李靖(りせい)、韋駄天(いだてん)、ナタ、閻魔大王、関羽など道教の神様は、お釈迦さまを守る神将(しんしょう)になっていったのでした。これは歴史から見た、いわゆる史実ですが、少林寺には次にお話する伝説も伝わっています。隋(ずい)の初代皇帝である「文帝」が、嵩山にある「嵩陽寺(すうようじ)」を、道教の寺院「嵩陽観(すうようかん)にした時のお話です。
この伝説は長いので、かいつまんでお話しましょう。隋の「文帝」がまだ「楊堅(ようけん)」と言って北周の総理大臣だった頃の話です。楊堅の息子「楊素」が敵と戦って窮地(きゅうち)に立たされた時、嵩陽寺の神様が「楊素」を助けたので、「楊素」は最後に勝つことができました。そこで嵩陽寺の神様に感謝して、ずっと信仰を続けました。後に楊堅が隋の皇帝になった時、嵩陽寺を嵩陽観にして、同時に観音菩薩と「クゥォン哈(は)」二神将を一緒にまつりました。同時に命を助けてもらった恩を感じて、少林寺の天王殿にも「クゥォン哈(は)」二神将をまつりました。だから、天王殿には仏さまと道教の神様が一緒にいらっしゃるのです。道教の神様には、「クゥォン哈(は)」二神将のほかに、托塔天王(たくとうてんのう)、李靖(りせい)、韋駄天(いだてん)、ナタ、閻魔大王、関羽などがいます。関羽は日本でも三国志演義で有名ですが、中国では道教の神様としても有名で、武術組織の中には関羽を信仰しているところも多いです。「托塔天王」に関しては、指導員コースⅡで勉強している易筋経の中でよくその名前が出てくるので、ご存知でしょう。中国の仏典の中にはよく「托塔天王」の名前が出てきますが、もともとのインドの仏典の中には、この名前はありません。少林寺はもともと仏教の寺院なのですが、中国文化の集大成と考えても良いと思います。天王殿にある「クゥォン哈(は)」二神将はその一つの現れでもあるのです。
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