前編
みなさんもよくご存知のジェット・リー(李連杰)のデビュー作「少林寺」は、少林寺の僧侶達によって唐王「李世民(=唐王朝第二代皇帝、太宗)」が鄭の王世充(おう・せいじゅう)から救出された故事が、描かれています。
では、映画の中にあったことは、どこまでが事実なのでしょうか。十三棒僧とは、どのような人々だったのでしょうか?今回は、この故事についてお話していきたいと思います。
大雄宝殿の前には、太宗「李世民」が自ら筆をとって署名した勅旨が「太宗文皇帝御碑」に刻まれています。このには、太宗が皇帝に即位した後、少林寺の僧侶に対して賜ったものの一覧や、十三人の僧侶の法名がはっきりと記載されていますが、これは非常に確かな物的証拠だと言えます。
十三棒僧の法名には、≪上座僧の善護、寺主僧の志操、都維那僧の恵?(けいちょう)、大将軍の曇宗(どんしゅう)、同時に功労者である、普恵、明嵩(めいすう)、霊憲、普勝、智守、道広、智興、僧満、僧豊≫があります。
白衣殿の奥の壁には、史実を描いた壁画があります。その画面には、古?城(こらくじょう)東門の外で、十三棒僧が城内から追ってきた敵将「王仁則(おうじんそく)の攻撃を防御する一方で、城内から救出されたのち、恐れおののきつつ馬に乗っていた李世民を守っていた場面が描かれています。この緊迫感に満ちた戦闘場面を見れば、当時の救出劇がいかに容易でなかったかということが、皆さんに理解していただけるかと思います。
「少林寺志」および関連する歴史の資料によれば、十三人の僧侶が李世民を救出したのは、唐の高祖が在位していた武徳三年(620年)のことでした。李世民は潼関(どうかん)を出て、洛陽に向かって兵を進め、鄭王を自称していた王世充(おう・せいじゅう)を破ろうとしていました。そして、これは中国統一の鍵となる大事な一戦だったのです。当時、李世民は、金城に秦政権を建てた薛挙(せつきょ)や、武威に凉(りょう)政権を建てた李軌、晋北に天興政権をたった劉武周を平定したばかりで、こうした勝利に乗じて、黄河の南岸に至っていました。
当時鄭王の「王世充」もまた、殷州および鄭州を占拠し、唐州長史の田?(でんさん)が投降し、その年に隋の文帝が少林寺の僧に賜った柏谷の荘園も武力で奪い取ったばかりで、実力も相当なもので、洛陽八関の中でも、李世民と雌雄を決することの出来る人物だったのです。
伝説によれば、李世民は当初落葉に兵を進めたものの、うまくゆかず、作戦のため地形を観察していた時に、鄭王の兵に捕らえられ、洛陽城内の牢獄に囚われてしまいました。
弟「李元吉」は兵を率いて李世民を救出しようとしましたが、「王世充」によって、さんざんに打ち負かされてしまいます。このとき、柏谷庄にいて、修行と農作業を行っていた少林寺の僧侶達は、鄭軍に再び蹂躙されることをよしとしませんでした。また、李世民が洛陽に囚われているのを聞いて、十三人の棒僧(棒術を得意にしている)達は、自分の達の武芸とまた、洛陽近辺の土地勘をたよりに、夜間に洛陽に侵入して、李世民を救出し、唐朝の中国統一に大きな功績を残したのでした。
伝説によれば、十三人の僧侶達は救出の夜、洛陽城まで来ると、普段練習用に身に付けている「重身」つまり、おもりを身体からはずし、日頃の修練でつちかった才能を発揮したので、たいした苦労も無く軽々と城壁を乗り越えたのです。(注意:日本の城とは違って、中国の城は一つの都市を城壁で囲んだものを言います。)
「志操和尚」は僧侶たちの中でも、洛陽を訪れた回数がもっとも多く、街の隅々まで熟知していたので、すぐに監獄を探し出すことが出来ました。この監獄の警備は非常に厳しく、また軽微にあたっている兵士達も休むことなく動きつづけています。そこで「志操和尚」は、特にすぐれた「曇宗(どんそう)」が先に進み、「恵?(けいちょう)」がその後を援護するように命じました。
二人が監獄の入り口に近づいたところで、警備兵が来るのを見たので、「恵?」はそっと背後から忍び寄って、その警備兵の口を抑え、音も立てずに人気の無い奥まったところへと連れていきました。「恵?」はこうして、敵の兵を一人叉一人と倒していったのです。「曇宗」は捕虜にした兵たちから、李世民が監禁されている場所とカギの保管場所を聞き出した後、「恵?、普恵、明嵩」の三人を引き連れて監獄に侵入し、その他の僧侶達は監獄の外で守備についていました。
「曇宗」達が静かに監獄に入ったところ、その中は明かりによって昼間のように明るく、三人の兵士達が守りを固めていました。「曇宗」が他の僧侶達にそっと目配せすると、「恵?」達三人は梁の上にさっと飛び上がり、また兵士達が気づく前にいっせいに飛び降りるや、兵士たちの首を抑え捕まえてしまいました。
後編
「曇宗(どんそう)」は、「恵?、普恵、明嵩」三人の僧達が順調に事を運んでいるのを見届けた後、カギを管理している「百総」のところへいき、あっという間にカギを手に入れてしまいました。「曇宗」は「百総」の手足を縛り、口をふさいで部屋の隅に放置しておきました。そして、「曇宗」と「普恵」達は合流した後、「普恵、明嵩」が入り口で見張りをし、「曇宗」と「恵?」がさらに監獄の奥へと進みます。しばらく進んだ後、首かせをつけられた李世民が一室の壁にもたれて座っているのがみえました。李世民は足音を聞くと、頭を挙げて二人の和尚がくるのがみえました。その姿を見て、李世民がまさに何かを言おうとしたとき、「曇宗」は、話さないようにと、慌てて手で合図をしました。そして、持っていたカギで首かせをはずすと、李世民を背負って監獄の一室を出、外にいた「普恵や明嵩」と合流して、脱出に向かったのでした。監獄を脱出した13人の棒僧達は、李世民を守って東城門に向かいました。一行が城門に近づいたとき、一群の兵士達が城門を守備しているのが見えました。このとき、夜が明けようとしていましたが、「志操」は仲間をひきつれ、大声で叫びながら守備にあたっている鄭軍の兵士達を蹴散らします。そして、城門を開けると、「曇宗」は李世民を背負ったまま城外へと急ぎました。李世民と棒僧たちの一行14人が、洛陽城を脱出してまもなく、追っ手がやってきます。兵が近づいてくるのを見ると、「志操」はあっという間に、追っ手のである鄭軍にいた一人の将を馬からひきずりおろして、李世民を抱きかかえて馬に乗りました。また、「曇宗」は身を翻して、棍棒で追っ手の一人を倒しました。14人は、このようにして、戦いながら逃げたのです。14人の一行が山を一つ越えたところで、一群の騎馬兵が現れ、一人の大将が道をさえぎりました。13人の棒僧達は敵に挟み撃ちにされ、進退もままならなくなったその時、前方からやってきた大将が突然、鄭軍を蹴散らします。この大将は、実は唐軍の将「秦叔宝」だったのでした。李世民は、こうして唐軍の陣営に無事戻ることが出来ました。その後、唐と鄭の両軍が対峙した時、13人の棒僧は、少林寺から500人の僧兵をひきつれて、関所を包囲し、「王世充」の退路をさえぎりました。そして、「王世充」の甥である「王仁則」を生け捕りにし、「王世充」に降伏するように迫ったのでした。唐は中国を統一し、李世民が皇帝に即位しました。即位の後に、太宗(=李世民)は、少林寺の僧侶達に勅旨を下しましたが、そこには、13人の棒僧達が太宗を救出したことと、その後の戦いにおいてめざましい活躍をして武功を立てたことを、大いにほめたたえています。太宗は僧一人ずつに紫の袈裟を一着与え、「曇宗」和尚を大将軍にし、農地40頃(=約267ヘクタール)と、水力でまわす碾き臼一つを与え、石碑に彼らの武功を刻ませました。この石碑は、今も大雄宝殿の前に立てられています。少林寺の僧侶達は、日ごろ鍛えた武術を使って、このように大いに活躍しました。明代の詩人「傳梅」は、当時の活躍をたたえて、「僧は隋唐より武名を好む」とその詩にうたっています。