前編
大宝宝殿のうしろ側、蔵経楼遺跡の西側壁面の外に三本の木があります。そのエンジュの木の枝は枯れており、小さいので、観光客もあまり注意して見ることがないのですが、事情を知っている人は感慨深げに、そして様々な思いを込めて見ます。
これは、紀元前249年の夏に、秦の始皇帝の父である「秦庄襄王」の「エイ異」が植えたもので,そのため「秦エン」と呼ばれてきました。この木については「詠秦エン七律」という漢詩が読まれていて、「少林寺志」と言う本にも記載が残っています。
約2200年あまり前の木がどうして、あまり大きくなっていないのでしょうか?しかも、少林寺の歴史は1500年にもなっていないのです。この不思議なエンジュの木について、お話したいと思います。
「秦庄襄王」の「エイ異」が、このエンジュを植えた当時は、父である孝文王「登基」から王位を継承したばかりでした。「エイ異」は呂不韋(りょふい)を相国(=だいじん)にし、また文信候をいう位も与えて、洛陽に10万戸の領地を与えましたが、呂不韋はこのよな厚遇に満足せず、さらに高い扱いを求めていました。このようなとき、呂不韋は「庄襄王」をそそのかして、共に洛陽へと旅に出たのでした。
「庄襄王」は、洛陽に到着すると、近郊にあった中岳嵩山へ行き、禹(う)の住居跡を尋ねました(注意:「禹(う)」⇒古代中国における伝説上の人物。天帝の命令を受けて、黄河の治水にあたり、夏王朝を開いた)そして、禹の妻が夏啓(かけい)を生んだという「啓母石」も見、禹がその当時治水に励んだ物語を呂不韋から聞きました。そこで、「庄襄王」は、カンエン山に興味を持ったので、カンエン山にも行きました。
カンエン山へ行ったところ、周囲が山に囲まれた素晴らしい場所だったので、「庄襄王」はこころゆくまで散策を楽しみます。そして、歩きつかれた後、大きな石の上でうたた寝をしてしまいましたが、目覚めた時に涙を流したのです。これを見た呂不韋は、驚きその理由を聞きました。「庄襄王」は、夢の中で生母「夏姫」に会ったのですが、夏姫が「自分は冤罪によって死んだ」と涙ながらに訴えてきたと語りました。
後編
呂不韋は「庄襄王」が母親の夢を見た話を聞くと、「庄襄王」の母を思う気持ちが天を動かしたので、この地で再会できたのだと、その親孝行ぶりをほめたたえました。「庄襄王」は、この場所で母親を懐かしみ、母親に夢で会えたことを記念して、一本のエンジュ(槐)を自ら植えて、後世に残したのでした。
約700年後、魏晋南北朝の頃になり、その昔秦朝の「庄襄王」が母をしのんで植えたエンジュの樹は、4人が手をつないで囲めるほどの、天をつくような巨木に成長していました。
当時インドから中国にやってきたバッダ和尚が少林寺を開いた際、この天にも迫る勢いのエンジュの樹を見て、少林寺に是非とも置きたいと希望し、少林寺に移植されることになったのです。
宋の時代になり、この「秦槐(しんかい)」は、5人が手をつないでやっと囲めるほどの巨木に成長しました。当時の皇帝「仁宗」が洛陽一帯を訪れた折、大元帥「仲淹(ちゅうあん)」が案内役を務めたのですが、「仲淹」はこの「秦槐」の由来を「仁宗」皇帝に説明しました。「仁宗」皇帝は、非常に感激し、即座にこの「秦槐」に飾り付けをし、盛大な儀式を行なって、五品の樹祖という位を授けました。それ以後、この木の前を通るときは、どのような官職についていようとも、必ずお辞儀をしなければいけないことになったのです。
「秦槐」はこうして、皇帝から位を授けられ、価値が何倍にも高まって、さらに人々の尊敬を受けるようになりました。しかし、残念なことが、この木が植えられてから530年過ぎた、明の時代の万歴(ばんれき)42年に起こりました。当時、すでに長い年月が経過していた「秦槐」は、暴風によって根元から倒れてしまったのです。その後、根元から二代目の「秦槐」が芽吹いてはきたのですが、300年余り経過したところで、1928年に軍閥「石友三(せき・ゆうざん)」によって少林寺が焼き討ちされ、二代目の「秦槐」もまた、蔵経閣などの三大殿と共に灰燼に帰したのでした。
のちに、三代目の「秦槐」は、三本芽を出したのですが、焼き討ちの後に芽吹いたせいか、勢いがあまりなく、枯れ枝のほうが多いような状態でした。しかし、近年になって、ようやく新しい枝が出てきました。これを見た人達は、「この木は、その昔皇帝から”五品樹祖”という高い位を授かったが、少林寺と同じく”二武滅法”と”二八の火厄”という災難を経験し、また見事に復活した。」と言っています。