今に至るまで伝えられてきた少林寺の三大不思議に「足を伸ばした仏さま、鼻のない鐘、魂が迷わされる塔」があります。少林寺以外のほかのお寺のお釈迦さまは、みな結跏趺座(けっかふざ=座禅をするときの足の組み方)をしています。しかし、少林寺の大雄宝殿のなかのお釈迦さまは、椅子に座ったように足を前に揃えて座っていらっしゃいます。なぜでしょうか?これは、少林寺は武術で有名なお寺であることに原因があります。お釈迦さまも武術の型で座っていらっしゃるのですが、これは、少林寺はお釈迦さまから僧侶に至るまで皆武術がわかると言うことをあらわしています。

第二の鐘の話しをしましょう。少林寺の鐘楼には、2メートル余りで「金泰和4年(鋳造)、重一万一千斤」という文字が刻まれた、大きな鉄の鐘があります。これは金の時代に造られた物で、「少林寺志」という本によれば、当時この鐘の音色は非常に良く、遠くまで響くので、少林寺の近辺にある少室山や中岳といった十五キロ四方まで届いたということです。この鐘に三本の亀裂が走っているのですが、これは以前にお話した「二八火厄」で軍閥「石友三(せき・ゆうさん)」が少林寺を焼き討ちした時に、割られたからです。普通鐘は上にかけるもので、このかける部分は「鼻」と呼ばれています。しかし、少林寺の鐘には鼻がありません。これは焼き討ちの際に壊されたのではなく、鋳造した時に鐘本体と鼻を別々に造ったので、鼻がないのです。では、金の時代の鐘はなぜ鼻がないのでしょうか?管長の話しによれば二つの理由があるそうです。一つは鐘の重さが五千キロ余りのため、鼻を作ったとしても鐘の重さに耐えられず、しかも鼻のために鐘全体の寿命が短くなってしまいます。だから鐘とは別に250キロの鼻を別に作ったのだそうです。こうして鐘本体と鼻を別々に作れば、長い寿命を保証できるし、音質も向上します。もう一つは、鋳造者が少林寺の僧侶の意見を取り入れて、武術を練習する時のために造ったというものです。この鐘を持ち上げて鍛錬に使えるし、鼻をつければ鐘としても使えます。

1928年に当時の軍閥「石友三」が少林寺を焼き討ちしたとき、大雄宝殿も鐘楼も焼け、大雄宝殿にあった様々な「足を伸ばした仏像」も焼失しました。だから、今ある大雄宝殿も鐘楼も、再建したものなのです。再建されたことは非常に喜ばしいことでした。しかし、少林寺に元々あった「足を伸ばした仏像」、すなわち、お釈迦さまや薬師如来、阿弥陀仏といった三大仏像はもともと椅子に座ったように足を伸ばした形ですわっていらしゃったのが、新たに作られたものは座禅をするときの足の型で座っていらっしゃいます。逆に薬師如来の前にいらっしゃった日光菩薩と月光菩薩は、再建後ダルマ大師の両脇に置かれました。焼失前に阿弥陀仏の前に置かれていた二人の息子、観世音菩薩と大勢菩薩は再建後に撤去され、かわりに緊那羅王(きんならおう)がそばに控えています。

さて、少林寺の鐘は改良されて大きく進歩しましたが、その時鐘と鐘の鼻は一体化されました。昔の鼻なし鐘ではなくなり、音質も変わってしまいました。

第三の不思議は「魂が迷う塔」のことです。寺の西側にある五乳峰の坂に数多くの宝塔が見られますが、このような塔の密集した場所「塔林」は中国でも最大規模のものです。少林寺を訪れた皆さんはかならず目にしていますし、また映画「少林寺」の中にも出てきます。ここは塔は本当に多いので、初めて見た人は迷いそうだと思うかもしれません。

この塔林がある場所は、二万一千平方キロメートル余りありますが、塔は一体いくつあるのでしょうか?伝説によれば、清朝の高宗は初めて少林寺を訪れたとき、塔林に塔がたくさんあるのを見て、数えてみたいと考え、随行してきた五百人の兵士に調査させたそうです。しかし、兵士達は長時間何度も数えましたが、具体的な数字を出すことができませんでした。一回目の時は東から西に向かって、二回目の時は西から東に向かって、三回目では南から北へと調べるというようにし、計九回調べましたが、全て異なる数字が出ました。

では実際には、塔林にはいくつの塔があるのでしょうか?「少林寺志」によれば、清代には500基(注:塔の数詞は「基」です)あり、史上最も多い時で700基あまりだったとのことです。では現在はどうでしょう?手元にある資料によれば、塔林の中にあるものは二百二十七基で、塔林の外に点在するものは二十八基なので、合計二百五十五基です。一番古いものは唐代のもので二基あり、続いて北宋のものが二基、金の時代のものが十基、元代のものが四十六基、明代のものが百4十八基、清代ものが九基あり、残りのものは年代がはっきりしないものです。塔林の中には、半分かけていたり、台座のみが残っているような、不完全な形のものも数多くありますが、こうしたものは数えられていません。

では、このような宝塔はどのような目的で造られたのでしょうか?この「塔」という言葉はインドのサンスクリット語でいう「塔婆」を音訳したもので、翻訳すると「墓」という意味になります。塔林というのは、すなわち歴代の和尚達の墓が集められた場所なのです。宝塔の材質は様々で、石造りのもの、レンガ造りのもの、石とレンガが半々のものもあります。また形も、正方形や長方形、六角形、八角形、円形、円柱形など様々です。高いものも低いものあるし、単純な造りも複雑な造りもあります。これは、墓の主である僧侶の、生前の地位や仏教の修養の程度、弟子の数、人望、経済状況などによって、塔のデザインが決まります。原則的には、一人の僧侶がなくなったら、一つの宝塔を造り、遺骨を安置することになっていますが、地位が低い僧侶の場合は、一つの塔に複数で安置されます。

少林寺最古の宝塔は1190年前のもので、唐の時代の「法玩禅師」のために建てられたものです。塔林に宝塔を造られるような僧侶は、非常に有名な高僧で、その時代の政治や仏教に強い影響力を持った僧侶が多く含まれています。また武術に優れ、国のために戦って皇帝から褒賞をいただいた僧侶も数多く含まれています。塔林の西側には、こうした武僧の塔が集まっています。塔林を見ていると、少林寺出身で中国のために功労をたてた人は、本当にたくさんいます。宋を建国した「趙匡胤(ちょう・きょういん)」や、元に抵抗した民族的英雄の「岳飛(がくひ)」、水滸伝に出てくる「武松(ぶしょう)、魯智深(ろちしん)、林沖(りんちゅう)、盧俊義(ろしゅんぎ)」など、みな少林寺の武術を習ったことがあります。唐の建国に際して少林寺の武僧が活躍したことは中国では有名ですが、明を建国した朱元璋(しゅ・げんしょう)も少林寺の僧兵五百人に助けられて、元朝の最後の皇帝を北京から追い出しています。現在、中国の有名な将軍の中には、少林寺出身の人もいます。