ここ数年、多くの観光客が少林寺を訪れていますが、地蔵殿に入ると、地蔵菩薩の後ろに、儒教で言う「二十四孝図(注:“二十四孝”とは親孝行をした話で、二十四人分の話があるため)」が壁画に描かれています。これを見た中国人の観光客達の中には、管長を探して「お寺にどうして、儒教の「二十四孝図」があるのはおかしい。消してください」という人達がいます。しかし、これは、よく知らないから言っているのであり、こうしたことこそ少林寺と他の寺院が違う特徴なのです。
「二十四孝図」が少林寺の地蔵殿に描かれたのは、約七百年前の元朝の初めのことでした。現在少林寺の僧侶達は先祖が伝えてきた教義を守っており、他人の言葉を軽軽しく信じたりしません。少林寺には道教の「(こう)、哈(は)」二神将だけではなく、儒教の「二十四孝図」も仏堂に入っていますし、それだけではなくもろもろの宗派が全て寺院に入っており、大雄殿の前は「混元三教九流図賛」の巨大な石碑が建てられています。こうした思想の元々は、南北朝の頃から始まっていました。
魏の孝文帝が少林寺を建ててまもない頃、少林寺の僧侶を非難する人達がいました。その人達は、「少林寺の僧侶は礼儀を守っていない。ただ合掌しているだけで、ひざまずかないというのは、親孝行ではない証拠である。」と言ったのです。これは、親にはひざまずいて挨拶しなければならないという、儒教における礼儀を守っていないということを責めています。仏教はもともとインドから伝わったものですから、僧侶の礼儀に対して、こんな風に言ったわけです。だから仏法を宣伝するのは礼儀に反しているので、信じてはいけないとされたのです。伝説によれば、当時第二代管長であった慧可(えか)は、お釈迦さまが両親を尊敬して色々親孝行した物語を話しました。その物語を話し終わった後、慧可は「仏門の弟子として、両親に親孝行し、国家や皇帝に忠義を尽くすのは当然のことです。仏教は合掌だけでひざまずいて挨拶はしませんが、これは仏門の習慣であり、個人的な親孝行の礼節の障害にはなりません。ただ習慣的なものなのです」と語ったのでした。
元朝の至元年間に世祖クビライは、雪庭福裕大和尚を国師、すなわち中国で一番位の高い僧侶に任命し、少林寺の管長でありながら、中国全土の僧侶達のリーダーになったのでした。福裕和尚は、仏教と儒教の間に存在する対立を解決するために、毎月の三と六と九がつく日は人々を集めて説法を行い、その中で特に儒教の親孝行について話をよくしました。この親孝行の話というのは、もちろん、元々儒教の中にあったもので、特に「二十四孝」の物語について話しました。福裕大師がこの話しをした時、同時に画家が絵を描き、地蔵殿の後ろの壁に壁画が描かれることになり、「二十四孝図」になったわけです。
明朝の嘉靖(かせい)年間、少林寺の僧侶は仏教だけを認めたのではありませんでした。仏教・儒教・道教を一つにすることを認めただけではなく、お釈迦さまや儒教の祖である孔子、道教の祖である老子を、みな尊敬すべき先生であるとしました。色々な流派を一つにするという考え方です。それゆえ、大雄宝殿の東側には「混元三教九流図賛」という石碑の上に描かれた絵があります。それは、お釈迦さまと老子と孔子の三人が一体になったもので、人に深く考えさせる絵だと思います。正面から見るとお釈迦さまで、右から見ると孔子、左から見たら老子に見えます。三人の身体と服はつながっており、分けられません。少林寺では、仏教と儒教・道教の三教が一緒になり、色々な流派も一緒になっています。少林寺がこんなに有名なのは、各流派の優れた部分を持ってきたからで、これも他の寺院とは異なるところです。また仏教だけではなく武術も行うという点でも、少林寺は他の寺院と異なっています。学問としては、仏教だけではなく、他の良いところを全部集めて集大成しましたが、これは少林寺が長い歴史の中でずっと有名であり続けた、重要な原因ではないかなと思っています。