少林寺には達磨大師の像があります。 両側には達磨大師からの四代の弟子である、二祖の慧可、三祖の僧サン、四祖の道信、五祖の弘忍がいます。 二祖慧可が、達磨大師に入門を願う時、自分の左腕を切って決心を表わし 弟子入りを許されたということは前にお話ししました。 そうして、達磨大師の教えを受け継いでいきましたが、 ではそのあと、三祖、四祖、五祖にはどういう物語があるでしょうか。
慧可は、自分の学問とは別の考えを持つ、道教の道コウという人からすごく批判をされていました。 道コウは、慧可のお経の時に、自分の弟子を送り込み、わざと難しい質問をして慧可を困らせようと試みます。でも実際に弟子は慧可のお経の間、質問をすることはありませんでした。逆に、心から尊敬の気持ちになり皆は慧可の弟子になってしまいます。 すると、道コウは、また、慧可の妨害をします。
ある日、慧可は坐禅をしている時、急に窓の外で何か戦っている音がして目を覚ましました。 「お坊さん、早く出てください」という声がしたかと思うと一人の僧が武器を持って現われました。 慧可を殺そうとしている人から守るため、その僧は慧可を逃がそうと戦っていたのです。
何日か後、慧可を助けたのは新しい弟子となった僧サンだとわかりました。 そしてそれから僧サンは40年以上慧可のもとについて、少林寺のお経と仏像を守っていました。
ある時、僧サンは、のちに三祖庵とよばれる場所を慧可について歩いていました。 僧サンは慧可に相談します。「私の中の罪悪を無くすにはどうすればよいのでしょうか。」
慧可は「あなたの罪を私の前に持って来れば、私はあなたの罪を取り除いてあげましょう。」 と言います。僧サンは、考えました。でも、いくら考えても、どうやって自分の罪を見せればいいのかわかりません。
すると慧可はすぐにこう言います。「あなたの罪はどこかを探せば見つかるのでしょうか。実際は、もう探さなくていいのです。私がすでに取り除いてしまいました。」罪は形あるものではなく空の状態であること。僧サンはこれを聞いて悟りを得ました。
そして二祖慧可から達磨大師の経を受け継ぎ、僧サンは三祖となりました。
三祖僧サンはあちこちに出掛け経典を話します。 ある時、西安のお寺での講義の時、僧サンの禅学に興味を持ったその中のひとりが是非弟子にしてほしい申し出ました。
その人は僧サンに三年間ついたあとで自分の考えを僧サンに話しました。 空や常などについての仏教の理解を認められ、道信いう名前をもらい禅の四祖となります。
道信は、湖北省黄梅県に行った時、一人の子供に出会いました。 その子は、目が不自由な人に殴られているところでした。そしてその子のお父さんも来て、子供の顔を殴りました。すごい怪我になってしまうのに、子供はずっと黙って弁解も何もしません。涙も流して訴えるということもしません。 見ていた道信は慈悲心から、これはどういうことですかと聞きました。 すると、目の不自由な人の言い分は、自分の服はある悪い人に盗まれた。そこで子供は、自分の家からお父さんの服を持ってきて、目の不自由な人に着せてあげたのですが、目の不自由な人は、子供が服を盗んだと思い込み「なぜ、あなたは私の服を盗んだのですか」とすごく殴ってきました。そうするとそれを聞いたお父さんも子供を叱って殴ります。
実際は、この子供は非常に誤解されている状態です。でも弁解もしないし、涙も流さない。普通の子供はすぐ涙が出るというのに。 道信はこれを見て、この子は慈悲心もあり、忍耐力もある、先天的な仏性 純粋な心を持っていると 思います。そしてすごく感動して、ぜひ仏教を教えたいと、両親に話します。 でも、両親はまだ小さい子供を手放したくないので、道信はこの黄梅県に住むことにしました。 子供は、昼間は両親の農業を手伝いながら、夜は道信について坐禅をし仏教を学びました。
名前は、忍耐力があるということから弘忍になり、禅宗の五祖になりました。
弘忍が五祖になってから20何年かの間に700人もの弟子ができました。弟子たちは、修行として農作業などの労働もしました。
仏教はできるだけ世間から遠く離れた山や野の中で自分で働き、自分で食べていく事とするこの生活を「農禅生活」といいます。農作業をしながら修行する生活は、五祖から始まりました。
唐の時代の皇帝は弘忍に何度も使者をむかわせ、高い地位も家も与えると約束しました。
しかし五祖弘忍は断り続けました。 弘忍が臨終の時、弟子にこう言いました。私は、一生の間に大勢の人達に教えてきましたが、私の教えを伝えることができる者は10人だけです。
それが、六祖慧能と神秀たちを始めとする者たちで道信が亡くなった後、皆は各地で教えを伝えていきました。そして弘忍の仏法と禅宗は全国に広まりました。
達磨大師の禅宗は、弟子に受け継がれていきましたが大きな流派となっていったのは五祖からだったといえます。達磨大師の時代には、まだあまり大きなものではありませんでした。後に、慧能は南宗禅、神秀は北宗禅の祖となります。