清の時代、皇族により北少林寺が建てられ南少林寺は全滅させたという話があります。
少林寺の和尚の歴史は明の朝廷では充実でしたが清の朝廷ではそうではありませんでした。
清の皇帝はそれに対して面白く思っていませんでした。
嵩山少林寺を表面では褒めていますが、一方では圧力をかけていました。
表面的には少林寺の修繕をしたり書を贈ったりします。
でも裏ではお坊さんの武術の訓練などは禁止しました。
南の少林寺は、清に反発する人達が明に戻る基地みたいな位置にあったので、厳しい弾圧に受けました。南の少林寺は、清の軍隊3万人に囲まれました。
軍隊は寺に火をつけて僧侶たちを死なせてしまったのです。
お寺の建物は無くなり、農家の土地になってしまいました。
ちょうど康シの皇帝になってから58年の春のことでした。
だから福建省の蒲田には「康シ58、和尚は涙」そういう言葉があります。
この時に外に逃げられたお坊さんは5人だけでした。
皇帝の軍隊は、このあと嵩山少林寺にも火を放ち、これは非常に大きな損害となりました。
僧侶の武術は禁止されていましたから、訓練していない若いお坊さんたちはみんな死んでしまったのです。
この事件のあと清の朝廷は次の皇帝の時代に、3年間かけて河南省の税金で少林寺を修復し、書を残しお寺の仏像を作りました。これによって皆の心にいい印象を残したかったのです。