少林寺に行った人々は、みな「天下第一の名刹」と言う言葉を耳にしたり、目にしたりするはずです。この「天下第一の名刹」というのは、世の中でいちばん優れた寺院という意味です。一般の方々は、少林寺は武術によって世界的に知られていると思われているかもしれません。だから皆さんに尊敬されている。80年代から世界に少林寺ブームがひろまったので、この名前が作られたとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、実際には、そうではありません。
少林寺がはじめて「天下第一の名刹」と称されたのは977年で、宋の第二代皇帝「趙光義(ちょう こうぎ」が太平興国(たいへいこうこく)二年に少林寺を「天下第一の名刹」と定めたことに始まります。趙光義はこのとき自ら筆を振るって「天下第一名刹」と書き、その六文字の大きな額は、少林寺の玄関である天王殿に掲げられました。趙光義はどうして少林寺にこのような名前を与えたのでしょうか?
その原因は宋の太宗の兄である、宋の初代皇帝である「趙匡胤(ちょう きょういん」にさかのぼります。趙匡胤は幼い頃より少林寺に入って、元珪禅師(げんけいぜんじ)の弟子となり、仏教と武術を十数年学びました。武術で一人前になってからは、「柴栄(しえい)」を兄として義兄弟の契りを結び、多くの戦功を打ちたてています。のちに柴栄は周を建国し、「世宗」に即位したのですが、即位二年目に聖旨を下して、仏教消滅の政策を打ちたてました。これにより、中国の寺院も仏像も全て破壊されてしまったのです。この時、趙匡胤はかつて少林寺から受けた恩を忘れず、「他の寺を滅ぼしても、少林寺は滅ぼしてはいけないし、仏像を破壊しても仏教の経典を消滅させてはいけない」と、柴栄に進言しました。そして、他の寺院にあった経典を全部少林寺に送って保存させました。この結果、ほどなくして少林寺は中国の中で経典が一番多く、完備された寺院となったのでした。趙匡胤はその後宋を建国したのですが、帝位についた後、命令を下して少林寺の大仏寺を修復し、また経典保存用の大規模な建物も建てています。
こうしたいきさつがあったため、趙光義は趙匡胤の次に即位した後、兄の遺志を引き継いで少林寺を保護し、「お経が一番完全に保存されている寺院」という意味をこめて、少林寺に「天下第一の名刹」をいう名前を贈ったのです。