少林寺気功の歴史役目」少林寺管長の会談のきっかけで国際常心門の池田先生と琉球古武道の代表の漢那先生と長い会話と会談を行いました。
池田先生は自分の思っている何十年間の武道の人生でそういう二つの点は非常に深く感じられたそうです。一つは、「人間は歩くのは二本足で武道をやる人も全て二本足でしなければならない。一本は武道の方と一本は直す方。私達身に付ける技術は相手を倒すだけはまだいけない。怪我の人は私達の手を通って相手を直る。これも非常に重要な事です。だから倒すと直す両方は両立じゃあないと本当の武道は健全な武道とは言えない。」そういう鍛練の話をしました。私は非常に同感しました。なぜなら実際私は、少林寺のものを日本に20年間教えるという事で、ずっとそういう道に走ってます。この道は、一つは当然に武道、初めて武術も教えましたし、もう一つは皆さんの健康、心身を元気で病気は癒してそういう道をずっと歩いて来ました。非常に池田先生の話は非常に良い話。次のもう一つの話はこういう良いものは広く伝えて、深く伝えるのは重要です。浅くて広くではなくて。こういう判断は私も同感です。やっぱり今の世の中のものは、結構流行ってるもの、沢山の人が集まってるものは正直な話はほぼ浅いものですよ。皆そういう講演者と師匠達とか日本人の心つかまって、皆さんの一番興味あるところに工夫して、皆さんの食べ物見てる。口の味に合わせてアレンジしたものばかり、どんどん世の中に出ています。でもそういうものは勿論一時的で悪いものはないですけど良い事ある。でも浅いですから直ぐ消滅、すぐ無くなる。そういうところはあちこちよく見ている。当然に歴史からの証明も出来ない。例えば少林寺のような1500年の歴史。200年でも150年でも続くでしょうか。今の世の中で流行しているものは90%それ出来ないじゃあないですか。だからそういう面である意味話は世の中ではどういうものを選ぶのか。例えば気功、気功はどういう気功を選ぶのかという事も同じです。この気功法は本当150年続けて出来るのか。多分これは今ある中の90%以上の団体は出来ないでしょう。中国ブームからの気功は、今も中国国内でほぼあるいは結構沢山の気功流派は実際にもう大体無くなった。勿論残ったある人は自分の趣味て習ったりやってるのはほぼ無くなったと同じです。
少林寺のようなものは、今迄1500年、私達が教えている少林寺気功、少林寺武術は当然これから1500年も更に続きます。そういう歴史から表明しているものは当然に長く深く広める。達磨大師は、私最新の本にも書いてありますけど、本当は達磨大師の初めての時弟子は四人でした。その時代誰も達磨大師の事は理解出来ませんでした。はっきりその時人気がありませんでした。でも今みたらその時代人気のものは当然に全部無くなってます。直ぐ皆さんその人気の名前忘れてる。逆に達磨大師のものは深いですから。だから広めることが出来ました。だから池田先生の話は凄く良い話だと同感しました。気功も武術もそういう事です。

次は漢那先生。一つの言葉は非常に響きました。一つは自分も漢那先生も四十~五十年間位の武道の経験があります。いろんな流派も交流して、今も素晴らしい演武は出来る人物です。今回の世界大会の演武とワークショップの教室も凄く評価されました。そういうような先生でも「やっぱり自分は特に本人の流派や沖縄の沢山の流派は、やっぱりはっきり中国からの特に少林寺流からの流れというものはよく自分自身の練習、体の感じ、体験で感じたそうです。」やっぱり協会の師範達のやってる少林寺の武道と自分が長年やる武道はやっぱりその中に繋がると言えます。だからそういうものは、やっぱり分からないと認めないと深くの理解は出来ない。これは一つ。
もう一つは私もびっくりしました。漢那先生は「自分の空手は、呼吸は当然に呼吸の要領、要求はある。ではなぜそういう呼吸、その呼吸本当はどういう効果があるのか。どういう説明は教えてない。誰も分からない。」そう言いました。私はびっくりしました。私思って多分空手のところ皆分かると思って、日本ではよく呼吸、呼吸言うですけれど話を分からない。だから逆にこっちの会員の演武見て凄く感心して、だからそうすると秦先生の今日本で教える少林寺気功、本当日本人としては本当有難い。感謝の事。素晴らしい事。特に武道の人達としては、凄く助かった事言いました。皆さん本当に一番必要なものは秦先生教えるものですよ。これ私びっくりして、でも漢那先生の顔見てわざわざお世辞の言葉は全然一切無い。私話そうですか。もしそうしたらやっぱり自分そういう重さは自分の肩の負担はもっと重くなります。感じました。逆に私達の指導員達、特に卒業した師範達この気功をどういうふうに伝える。少林寺の気功は世の中にどういう役目、更に多分理解して、ちゃんともう一回認識必要ないじゃあないですか。今まで。

漢那先生は実際もう一つの話。「自分の元の師匠は実際13年間中国にいて中国で凄く勉強しました。それは技術だけじゃあなくて呼吸も習い出しました。でも何故習って自分達に琉球の中の皆さんに教えなかった。そういう事はずっと悩んでいる。」私、この話はこれはやっぱり漢那先生の師匠の事良く理解した方が良いと思います。何故教えると教えないのは縁の事もありますし、もう一つはそういう理解の力も、そういう事もあります。ある人に教えたくても教えられない。何故教えても受けられない。分からない。そういう事もいっぱいあります。だから教えるところ、なぜ教えるか、教えないの問題じゃあない。私自分自身も非常にそういう経験ありました。今まで日本に教えるは20年間で。でも結構沢山の事を本当は伝えたいし教えたい。でも中々伝える事が出来ない。伝えないのはただ技術の問題。本人は出来る。そのポーズ覚えるか覚えないの問題じゃあない。やっぱり素質の問題勿論ある。もう一つやっぱり人生感のどういう事の問題もあります。簡単な事ではない。だからそういう意味で私、漢那先生見て自分の師匠をよく理解した方が良いと思います。何故、元々は違う環境で教えるものですから、習ってるものとだからそういう事で話で終わりました。気功でも武術でもその中に少林寺の長い間の歴史のものそういう伝えるのは正直な話はすべてのもの、教室の中に伝えるは出来る訳ない。その環境に一定の環境の中に入れないとそれも出来ないですよ。例えば私達教えるものを大会でやる。そういう形で通ってこれも一つの形ですよ。だから教えると教えるないのはそれの形だけの問題。知識だけの問題ではない。そういう面で皆さん多分少しづつ分かるじゃあないかと思います。