少林寺の秘話集
「少林寺及び少林功夫継承」
少林寺は、河南省登封市の北西13キロにある中岳嵩山西麓にあります。 嵩山の東は大室山、西は少室山で、竹林が密集した少室山五乳峰の下にあることから「少林寺」と名付けられました。北魏王朝の太和の19年(495)に、孝文帝はインドの僧侶バドゥオのために少林寺の建設を命じました。 それ以来、多くのインドの僧侶が禅を教えるために少林寺にやって来ました。歴史的、政治的、地理的およびその他の理由により、武術は徐々に少林寺に入り、受動的に戦争に関与してきました。 少林拳の信念の最初の形―神の力と座禅への信念はこの時期に形成されました。
インドから来た著名な僧である達磨大師は、最初に少林寺で禅を提唱し、少林寺において代々の継承され、禅の宗家としての地位を確立しました。 隋王朝の初期には、朝廷の報酬により、少林寺には広大な土地が与えられました。 隋王朝の終わりに伴い、寺院の財産を保護するために、少林寺の僧侶は自分たちを守るために武僧団を組織し、新しい王朝、唐王朝の設立に貢献しました。 それ以来、少林寺は武術で有名であり、1500年以上の歴史があります。
唐王朝の繁栄以来、禅の普及が広まり、中国本土の仏教の主流になりました。 宋王朝に入ると、少林寺における禅の地位が確立され、「禅と武術の統合」が少林拳の主流の思想になり始めました。明元の時代に、少林寺は寺院の家長制を確立しました。これは少林拳の体系と宗派の形成の重要な基盤となりました。
明代には民間武術が盛んで、少林拳が大きく発展した時期でした。 明代の約300年の間に、少林寺の僧侶は少なくとも6回朝廷に採用され、戦争に参加し、功績のある奉仕を確立し、朝廷から多くの賞を受賞しました。 この期間中に、少林拳の体系化、また学校が少なくとも10校あり、少林拳の著作も登場し始めました。
少林寺の家長制は比較的閉鎖されており、仏教の制度は開放されて、自由に出入りできます。開放と閉鎖の両方を備えた少林寺では、少林拳の発展と継承、そして少林拳の体系と学校の形成において、非常に重要な役割を果たしています。
清朝中期から後期にかけて、朝廷は民間武術の修行を禁止し、少林寺の僧侶たちは密かに武術の修行を主張しましたが、少林拳のレベルと影響力は全体として低下しました。 中華民国の時代、軍閥は互いに戦い、少林寺はさらに衰退し、少林拳も不安定でした。しかし1980年代に僧院の宗教生活が再開され、少林拳の価値が再強調され、少林拳の老僧が若い僧に少林拳を教え始め、少林拳の収集、識別、配置、出版が行われました。少林拳の本は徐々に出版されました。
さらに2006年、少林拳は国の無形文化遺産の代表的なプロジェクトの最初の登録に選ばれました。
少林寺組織と少林拳継承系図
少林寺の「無形文化遺産宣言」の相続人の保護と継承の部門では、冒頭に少林寺の門頭制度の復旧計画について言及しています。 現在における少林寺の僧侶の継承は、基本的に13世紀に禅師福裕によって確立された継承の血統に従っていますが、組織は非常に不完全であり、一部の組織は消滅しています。 各門頭制度が受け継ぐ少林拳の種類やスタイルにはそれぞれの特徴があるため、門頭制度の終焉は少林拳の多様性と豊かさの喪失を意味します。少林寺は、寺院内の僧侶の遺産を全面的に整理しました。
これに基づいて、継承の順序を明確にし、弟子を受け入れる慣習を回復し、少林寺の歴史における伝統的な継承方法に従って、組織を作り、また改善しました。
宣言書には、禅師福裕が築き上げた総70世代の少林寺の辈字の血統が紹介されています。この原本を保存することを心から願っています。現代の少林寺の僧侶たちは、血統の「永遠の美徳」に受け継がれています。800年近くの歴史があります。
少林拳の継承は、厳密に師弟制度に従って行われ、この師弟関係は、少林寺の伝統的な家父長制の最も基本的な現れです。家父長制は古代中国社会の基本構造であり、強い結束を持っています。
13世紀、曹洞宗の禅宗の指導者である福裕禅師が少林寺を伝統的な中国の家長制度を備えた僧院に建てました。少林拳もまとめました。少林寺の家父長制の歴史の中で最も発展した時期には、その管轄下に25の門があり、合計で2,000人以上の僧侶がいます。
嵩山少林寺管長である釋永信によれば、現在、釋永信は天津万山北少林寺、新密公翔寺、新密朝華寺、昆明観音寺、商丘観音寺、興陽東林寺、金義を含む十数軒の下院を修復し、天津寺など設立しました。
少林拳の継承は、少林寺の伝統的な家父長制の師弟関係に基づいており、仏教と武術を融合させた特別な方法で行われています。少林拳を教える過程で、見習いは武術を練習するための基礎として日常を持っていますが、少林拳の高レベルを学ぶことは、完全に師匠の教えと禅の練習をいかに弟子は理解したかによります。少林拳の継承の流れは少林功夫と座禅の練習は同時に行われます。
歴史上、少林拳には東、西、南、北、その他の小さな寺院など、多くの下の中庭と門があります。 その後、歴史の変化に伴い、組織は破壊されました。少林拳が国の無形文化遺産に登録された後、天津の北少林寺や西陽山の金翔寺の修復など、院制度も徐々に回復されました。 少林寺は今や世界で非常に影響力があり、少林寺文化センターは多くの国で設立されており、実際に新しい扉を築いています。
少林拳の相続人の選考は、総合的な質を検討し、禅と武術の両方からそれらを育成する必要があります。 武術の育成に焦点を当てることは、少林拳と通常の武術訓練機関との違いである。形と技能の進化に注意を払いますが、伝統的な実践方法を使って内部養成を行い、形と精神の両方を持つことにもっと注意を払います。
少林寺で功夫を学ぶ弟子は、少林寺の僧侶と少林寺の弟子の2つに分かれています。 信徒の弟子も仏教の規則に従って拘束され、詠經に参加し、早朝のクラスのために朝5時に起きなければなりません。
「少林功夫」は多くの体系を持つ大きな概念であり、一般的な意味での「学校」や「拳術」ではなく、巨大な技術体系です。 少林寺で受け継がれた拳術の記録によると、少林拳の套路(型)は708種類あり、そのうち552種類の拳法と武器の型および156種類の実戰技、関節技、倒す技、鍼、気功、72芸及び他の種類のトレーニング法があります。 少林寺で受け継がれ、再収集された少林拳の統計によると、拳法型は178種類、武器型は193種類、格闘技は59種類、その他の種類は115種で、合計545種類です。 これらのコンテンツは、さまざまなカテゴリと難易度に応じて、有機的に組み合わされて巨大で整然とした技術システムになっています。
少林功夫は、攻撃と防御の戦いの人体の動きを核とし、決まった動作を基本単位とする表現の形で具現化されています。 決まった動作は一連のアクションで構成されています。 決まった動作への動きの設計と組み合わせは、人体の古代中国の医学的知識に基づいており、人体の動きの法則に準拠しています。 決まった動作は、動きと静けさの組み合わせ、陰と陽のバランス、剛性と柔らかさの組み合わせ、そして精神と形の組み合わせに注意を払います。その中で最も有名なのは「六合:即ち內三合外三合」の原則です。手と足、肘と膝、肩と腰、心と意、そして意と気。気と力とが合わせなければならなりません。
少林寺功夫はこれまで受け継がれていますが、すべて継承することは困難です。 例えば、羅漢拳は、歴史上18種類の型ですが、さまざまな理由で相続が中断され、18路の羅漢拳をすべて再現することができなくなりました。
「少林文化代表団は『少林寺の日(2004年)』の設立式に参加するために米国に行きました
少林寺の武僧団は、少林拳の外部公演とコミュニケーションのメインチームです。 少林寺の僧侶に由来し、歴史的に少林寺は「十三本の僧侶が唐王を救った」ため、勅令を発令し、少林寺の特権を僧侶に授けました。
伝統的な少林武術を継承し、社会の要望に応えるために、1987年に釋永信によって開始され、少林寺は少林武術チームを設立しました。1989年、少林武術チームは正式に名前を少林寺武僧団に変更しました。その役割は、伝統的な武術文化を継承し、少林武術を行うことで少林禅仏教を宣伝することです。
1989年6月、嵩山少林寺管長釋永信は24人の少林寺僧侶のグループを率いて海南省海口市の労働者劇場で3回の少林拳公演を続けて行い、センセーションを巻き起こしました。 少林寺の僧侶が外で演奏するのはこれが初めてです。
1990年12月27日、武術協会の招待により、釋永信が率いる少林寺仏教文化代表団が東京、京都、大阪、横浜などの日本の都市を訪れました。 その後、代表団は、日本国立テレビ、東京興林大学などで10回以上の少林功夫の公演を行いました。 近年、少林功夫は文化的な名刺となり、何度も訪れ、60を超える国や地域で少林功夫公演を行い、世界中の人々に歓迎されています。
第1回少林寺の「少林72芸選考大会」が開幕
2017年、嵩山少林寺において、「第1回少林無遮大会」が開催されました。その中でも、少林72芸選考大会は、当大会を通じて少林功夫愛好家を集め、少林文化を促進し、少林功夫の発展を促進することを目的としていました。少林文化は、社会に対し、貢献をしています。少林寺72芸は、少林寺の弟子や実践・普及している少林寺関連の武術団体の通称であり、内容も充実しています。 体と心の統一と禅と武の統一の練習効果を達成するために、各スキルは繰り返し練習と練習を必要とします。
(もともとは2020年の「禅露」雑誌の第5号に掲載されました。著者は中国芸術アカデミーで働いており、主に中国の伝統音楽と無形文化遺産の保護と研究に取り組んでいます。)
少林寺の十三棒僧、唐王を救う!
※映画「少林寺」の物語の元となる興味深いお話です
少林寺の映画。みなさんもよくご存知のジェット・リー(李連杰)のデビュー作「少林寺」は、少林寺の僧侶達によって唐王「李世民(=唐王朝第二代皇帝、太宗)」が鄭の王世充(おう・せいじゅう)から救出された故事が、描かれています。
では、映画の中にあったことは、どこまでが事実なのでしょうか。十三棒僧とは、どのような人々だったのでしょうか?今回は、この故事についてお話していきたいと思います。
大雄宝殿の前には、太宗「李世民」が自ら筆をとって署名した勅旨が「太宗文皇帝御碑」に刻まれています。このには、太宗が皇帝に即位した後、少林寺の僧侶に対して賜ったものの一覧や、十三人の僧侶の法名がはっきりと記載されていますが、これは非常に確かな物的証拠だと言えます。
十三棒僧の法名には、≪上座僧の善護、寺主僧の志操、都維那僧の恵?(けいちょう)、大将軍の曇宗(どんしゅう)、同時に功労者である、普恵、明嵩(めいすう)、霊憲、普勝、智守、道広、智興、僧満、僧豊≫があります。
白衣殿の奥の壁には、史実を描いた壁画があります。その画面には、古?城(こらくじょう)東門の外で、十三棒僧が城内から追ってきた敵将「王仁則(おうじんそく)の攻撃を防御する一方で、城内から救出されたのち、恐れおののきつつ馬に乗っていた李世民を守っていた場面が描かれています。この緊迫感に満ちた戦闘場面を見れば、当時の救出劇がいかに容易でなかったかということが、皆さんに理解していただけるかと思います。
「少林寺志」および関連する歴史の資料によれば、十三人の僧侶が李世民を救出したのは、唐の高祖が在位していた武徳三年(620年)のことでした。李世民は潼関(どうかん)を出て、洛陽に向かって兵を進め、鄭王を自称していた王世充(おう・せいじゅう)を破ろうとしていました。そして、これは中国統一の鍵となる大事な一戦だったのです。当時、李世民は、金城に秦政権を建てた薛挙(せつきょ)や、武威に凉(りょう)政権を建てた李軌、晋北に天興政権をたった劉武周を平定したばかりで、こうした勝利に乗じて、黄河の南岸に至っていました。
当時鄭王の「王世充」もまた、殷州および鄭州を占拠し、唐州長史の田?(でんさん)が投降し、その年に隋の文帝が少林寺の僧に賜った柏谷の荘園も武力で奪い取ったばかりで、実力も相当なもので、洛陽八関の中でも、李世民と雌雄を決することの出来る人物だったのです。
伝説によれば、李世民は当初落葉に兵を進めたものの、うまくゆかず、作戦のため地形を観察していた時に、鄭王の兵に捕らえられ、洛陽城内の牢獄に囚われてしまいました。
弟「李元吉」は兵を率いて李世民を救出しようとしましたが、「王世充」によって、さんざんに打ち負かされてしまいます。このとき、柏谷庄にいて、修行と農作業を行っていた少林寺の僧侶達は、鄭軍に再び蹂躙されることをよしとしませんでした。また、李世民が洛陽に囚われているのを聞いて、十三人の棒僧(棒術を得意にしている)達は、自分の達の武芸とまた、洛陽近辺の土地勘をたよりに、夜間に洛陽に侵入して、李世民を救出し、唐朝の中国統一に大きな功績を残したのでした。
伝説によれば、十三人の僧侶達は救出の夜、洛陽城まで来ると、普段練習用に身に付けている「重身」つまり、おもりを身体からはずし、日頃の修練でつちかった才能を発揮したので、たいした苦労も無く軽々と城壁を乗り越えたのです。(注意:日本の城とは違って、中国の城は一つの都市を城壁で囲んだものを言います。)
「志操和尚」は僧侶たちの中でも、洛陽を訪れた回数がもっとも多く、街の隅々まで熟知していたので、すぐに監獄を探し出すことが出来ました。この監獄の警備は非常に厳しく、また軽微にあたっている兵士達も休むことなく動きつづけています。そこで「志操和尚」は、特にすぐれた「曇宗(どんそう)」が先に進み、「恵?(けいちょう)」がその後を援護するように命じました。
二人が監獄の入り口に近づいたところで、警備兵が来るのを見たので、「恵?」はそっと背後から忍び寄って、その警備兵の口を抑え、音も立てずに人気の無い奥まったところへと連れていきました。「恵?」はこうして、敵の兵を一人叉一人と倒していったのです。「曇宗」は捕虜にした兵たちから、李世民が監禁されている場所とカギの保管場所を聞き出した後、「恵?、普恵、明嵩」の三人を引き連れて監獄に侵入し、その他の僧侶達は監獄の外で守備についていました。
「曇宗」達が静かに監獄に入ったところ、その中は明かりによって昼間のように明るく、三人の兵士達が守りを固めていました。「曇宗」が他の僧侶達にそっと目配せすると、「恵?」達三人は梁の上にさっと飛び上がり、また兵士達が気づく前にいっせいに飛び降りるや、兵士たちの首を抑え捕まえてしまいました。
「曇宗(どんそう)」は、「恵?、普恵、明嵩」三人の僧達が順調に事を運んでいるのを見届けた後、カギを管理している「百総」のところへいき、あっという間にカギを手に入れてしまいました。「曇宗」は「百総」の手足を縛り、口をふさいで部屋の隅に放置しておきました。そして、「曇宗」と「普恵」達は合流した後、「普恵、明嵩」が入り口で見張りをし、「曇宗」と「恵?」がさらに監獄の奥へと進みます。しばらく進んだ後、首かせをつけられた李世民が一室の壁にもたれて座っているのがみえました。李世民は足音を聞くと、頭を挙げて二人の和尚がくるのがみえました。その姿を見て、李世民がまさに何かを言おうとしたとき、「曇宗」は、話さないようにと、慌てて手で合図をしました。そして、持っていたカギで首かせをはずすと、李世民を背負って監獄の一室を出、外にいた「普恵や明嵩」と合流して、脱出に向かったのでした。監獄を脱出した13人の棒僧達は、李世民を守って東城門に向かいました。一行が城門に近づいたとき、一群の兵士達が城門を守備しているのが見えました。このとき、夜が明けようとしていましたが、「志操」は仲間をひきつれ、大声で叫びながら守備にあたっている鄭軍の兵士達を蹴散らします。そして、城門を開けると、「曇宗」は李世民を背負ったまま城外へと急ぎました。李世民と棒僧たちの一行14人が、洛陽城を脱出してまもなく、追っ手がやってきます。兵が近づいてくるのを見ると、「志操」はあっという間に、追っ手のである鄭軍にいた一人の将を馬からひきずりおろして、李世民を抱きかかえて馬に乗りました。また、「曇宗」は身を翻して、棍棒で追っ手の一人を倒しました。14人は、このようにして、戦いながら逃げたのです。14人の一行が山を一つ越えたところで、一群の騎馬兵が現れ、一人の大将が道をさえぎりました。13人の棒僧達は敵に挟み撃ちにされ、進退もままならなくなったその時、前方からやってきた大将が突然、鄭軍を蹴散らします。この大将は、実は唐軍の将「秦叔宝」だったのでした。李世民は、こうして唐軍の陣営に無事戻ることが出来ました。その後、唐と鄭の両軍が対峙した時、13人の棒僧は、少林寺から500人の僧兵をひきつれて、関所を包囲し、「王世充」の退路をさえぎりました。そして、「王世充」の甥である「王仁則」を生け捕りにし、「王世充」に降伏するように迫ったのでした。唐は中国を統一し、李世民が皇帝に即位しました。即位の後に、太宗(=李世民)は、少林寺の僧侶達に勅旨を下しましたが、そこには、13人の棒僧達が太宗を救出したことと、その後の戦いにおいてめざましい活躍をして武功を立てたことを、大いにほめたたえています。太宗は僧一人ずつに紫の袈裟を一着与え、「曇宗」和尚を大将軍にし、農地40頃(=約267ヘクタール)と、水力でまわす碾き臼一つを与え、石碑に彼らの武功を刻ませました。この石碑は、今も大雄宝殿の前に立てられています。少林寺の僧侶達は、日ごろ鍛えた武術を使って、このように大いに活躍しました。明代の詩人「傳梅」は、当時の活躍をたたえて、「僧は隋唐より武名を好む」とその詩にうたっています。
少林寺はいつ、そして、なぜ建てられたのか?
少林寺は西暦495年、中国の歴史上の南北朝時代に北魏の孝文帝(拓跋宏)により太和 19年に建てられました。魏孝文帝は、全国統一を手に入れる為にインドの高僧跋陀和尚に意見を求め、その褒美として少林寺は造られたのです。
当時、中国は南北朝の時代。北魏の王朝である少数民族鮮卑族は、揚子江の北側、中国の全体の6,7割の土地を支配していました。南の宋王朝は、揚子江の南側の中国全体の3,4割の支配でした。
拓跋宏が天下の時に国の力は段々とすごく強くなっていきました。西はイランイラク、トルコ迄、東は韓国迄とかなり広い地域に勢力を伸ばしていました。もし拓跋宏に従わなければ、北の方の小さい国や民族はすぐさま砂漠の北まで追い出されます。ただ、南朝の劉宗の統一までは及んでいませんでした。
その時期、インドの高僧の跋陀は中国の雲崗石窟で仏教を伝えていました。孝文帝は天下統一について跋陀に意見を求めました。跋陀和尚は自分の考えを話しました。
北の魏の発展は天時によるものです。これは運命的という意味です。また、恵まれた場所により、自分の軍隊の兵力が発展しました。この地利ということにより、国の6,7割もの地域を統一できたのです。
ただ、人和ということが足りません。だから全体的な天下統一はできないのです。中国は昔から政治的な最終到達には天時・地利・人和の3つが揃わないと統一はできません。もし人和があるならばもっと統一はできます。この話を聞くと、孝文帝は非常に喜びました。
また、跋陀は人和の為の4つの提案をしました。第1は、先祖である太武帝が行なった仏教弾圧の政策を変えてやり直すことです。そのためには自分の国の中にたくさんのお寺を作り、大勢の僧侶と尼僧を援助します。そしてみんなが仏教を信じる心を育て、人間の心を安定させるのです。皇帝自らも在家弟子となり、仏教の信者であることを国民に表わします。そしてお経を読み、国民みんなの安定を願うのです。
第2は、国民みんなに土地や食料を平均的に与える制度を作ります。食料を充実させ、毎日の食事が安定するとみんなの心も安定します。
第3は、漢民族の心を掴むことです。国の中では漢民族が一番多く、国全体の安定には漢民族の心を抑えることが大事なのです。その為には、漢民族の習慣と礼儀を尊敬しなければなりません。まず漢民族の学校を作り文化を学びます。そして皇帝は少数民族ですから、自分の民族の女性は漢民族に嫁ぎます。異なる民族間の結婚は許されませんがこれを一切許すのです。特に、皇帝自らと親族がまず始めに漢民族の衣服、礼儀、言葉、漢語、姓を取り入れます。これにより、漢民族と自分の民族との壁を取り去り、こうして全体の国の統一をするのです。第4は、首都の場所を、皇帝のもともとの北の少数民族の場所ではなく、国の中心部である洛陽に遷します。いい国は、みんなの心が中心を向き統一の意識が生まれるのです。だから必ず最後は全体の天下統一とは、心に戻るのです。孝文帝は4つの意見を聞いて感心しました。ただ、第3の提案には少し難しそうな顔色を見せました。
跋陀は続いて話しました。昔の孔子について有名な話があります。天下統一とは何よりも王が大事です。もし皇帝は自分の周りにいる人達ばかりを気に掛け多くの国民の平和や幸せを願うのを忘れてしまったら、それは国のリーダーではありません。跋陀は言いました。あなたが自分の民族の平和だけを思うのなら第3と4の提案を実行せずに統一をしなくてもいいでしょう。
この最後の言葉で孝文帝は目が覚めました。それからは非常に頑張り、周りの親族の妨害も乗り越えて、4つの提案を実行しました。
自分を始めとして仏教を信仰し在家弟子となり、漢民族の文化を取り入れ、姓は元という漢民族のものに変えました。国の元々の首都の山西省、から洛陽に遷しました。そうすると国はどんどん発展しました。しかし、皇帝はことを跋陀の意見を実行したら国が発展したので1日もインドの高僧から離れなくなってしまいました。そして跋陀に山西省の雲崗石窟から出て来て洛陽に住む事を願いました。でも跋陀は、洛陽は賑やかすぎるし自分は静かな所が好きですから嵩山に住んで世の中の喧騒からは離れたいと言いました。
皇帝はどんな場所が良いのか訪ねると跋陀は“竜虎相親地、如来身下辺、睡蓮花心内、シュアン(車へんに環の右側の字)轅古道前”と答えました。皇帝は洛陽に引越し後すぐに大臣と一緒に嵩山を探し法王寺に泊まった時に管長である道登和尚からその意味をを教えてもらいました。
そこで皇帝は跋陀和尚の為にお寺を作り、このお寺は少室山の林の中にあるので少林寺という名になったのです。跋陀和尚は、30数年間少林寺の管長になり、その間に多くの弟子もできました。この様に少林寺初めての管長は達磨大師ではなく跋陀和尚でした。また名の有る管長としては慧光、僧周のふたりも知られています。
少林寺は、天下にどれだけあるか?
少林寺はふつう嵩山少林寺と言われていますが、ほかの少林寺はあるのでしょうか。今の分かっている範囲では、少林寺は十五あります。一番最初にできたのは嵩山少林寺です。嵩山少林寺以外に、唐の時代、初代皇帝「李世民」は南方征伐を行ない全国を統一しましたが、相手側の将軍の部下が、福建省の海に面したところで海賊になっていたので、その場所が非常に不安定な状態でした。李世民はその当時の少林寺の管長に頼んで、管長が二人のリーダーのもと五百の僧兵を福建省沿海に派遣して、福建に住んでいる。十何年間。そうして、その海賊を消滅させて、そこで仏法を伝えたので、大勢の人が仏門の弟子になった。でも、大勢の僧兵達は少林寺に戻りたがっていた。そこで皇帝の許可がおりて、海賊を平定したそこの南にもう一つの少林寺を作りました。その作った場所は、実際は福建省の蒲田の北の所は5,6キロぐらいの所の九蓮山のふもとに南少林寺を作りました。それから残念なことに時代が下って清の時代に康煕帝に破壊されてしまったのですから。
実際に少林寺武術の発展と少林寺の禅の事が広められたので、。全国で少林寺の名前がつけられたお寺はけっこう多いです。例えば元の時代の皇帝は、盤山法興寺を「北少林寺」に変えました。そういうのもあります。
次に江西省の盧山、もうひとつは「蛤蟆ワ少林寺」そういうこと。次は蛾嵋山の中にももう一つの少林寺、広州に一つの少林寺、福建の泉州にある鎮国東禅寺も少林寺の名前に変わっている。そうするとその後は、また、どう言う意味、晋江の東風山、山東省の沂水九蓮花山、あるいは長安、太原、台湾の八幡社陽山、みんな少林寺を立てました。元の時代に、外モンゴルのところにも一つの少林寺。だからそうすると、中国国内は十二の少林寺があります。
そうすると少林寺の禅と武術が世界に世界にだんだん伝えられて、日本にも少林寺は作られている。日本の金剛禅の少林寺もあります。シンガポールも少林寺があります。これでふたつ。十四ですから。最近はアメリカのニューヨークのチャイナタウンのところにも、一少林寺がつくられました。だから全世界で十五の少林寺があります。
少林寺の組織はどのようなものか?
少林寺へ人々が来ると、少林寺についてちょっと詳しい人は「常住院」いうことを耳にします。この「常住院」と言われているのは,少林寺の組織の1つです。少林寺は代々僧達によって伝えられてきましたが、人々は皆大家族という雰囲気があります。だから一般の親戚関係のように、いとことか同じ世代といった分け方が存在するのです。
清朝以来、少林寺の僧は十八の門派に分かれ、それぞれのグループを形成しました。そのグループはおのおの別に住み、それぞれが「荘院、土地と財産、農耕用の牛や道具、農耕地、」などを持っていました。これがすなわち、世間でよく言われているところの「少林寺の十八門僧」ということなのです。この十八の「家庭」の間には貧富があり、常に相互の貸し借りがあり、土地や家具の売買といったこともよく発生しました。この十八の家族の間と、寺や世間との間を処理する政務機構を作る必要がでてきたのです。こうした大きな事務のために常設された機構と人員が常設されて、「常住院」に住んでいました。「常住院」の名称もここから生まれたのです。
この常設機構と人員は、寺の管長とその首座(しゅざ)など四人の班主(はんしゅ)と八人の執事で構成されています。では少林寺はいったいどういう部分から構成されているのでしょうか?一つは南北少林寺です。距離は遠くても少林寺の部門です。少林寺の西側に、少林寺開山の祖師であるバッダ和尚当年の「甘露台」があります。五乳峰の上に達磨大師が九年間壁に向かって座禅を組んだ場所である達磨洞と達磨大師の住居である「初祖庵」があります。南面には、さらに二祖「慧可(えか)」が自らの腕を切って達磨大師に法を求めた後、怪我の静養した場所「二祖庵」があります。寺の東にはさらに三祖「僧 ソン」を記念した場所「三祖庵」があり、さらに魏の孝明帝の妹「永泰公主」が修行をし、また歴代の尼僧が修行した「永泰庵」があります。このほかに、さらに代々の少林寺の僧侶の墓である「塔林(とうりん)」などがありますが,これらで少林寺は構成されています。このように「常住院」を除いて、その付近には七つの構成部分があります。
少林寺の僧侶が一生をかけて追求していることとは何か?
少林寺では次のような二つの言葉が伝えられています。それは「師に導かれて仏門に入るが、修行は自分一人でする」と、「十年間苦学すれば、皇帝の元で高級官僚になれるが、十年仏前で経文を読んでも徳を積んだ和尚にはなれない」です。少林寺を訪れた人々は、作業用の僧衣(そうい)を着た僧侶達が一日中寺の中を行き来するのを目にするでしょうが、僧侶達はみな厳しい戒律を守っており、ある種の特殊な学校のような印象さえあります。
さて、朝四時、僧侶達は皆きちんと並んで大雄殿(だいゆうでん)の中で合掌し、鐘などの仏教用の楽器の伴奏のもとで、読経(どきょう)がはじまります。これが少林寺の朝の勤行(ごんぎょう)です。一人が読経して、その後にその他大勢の僧侶が読経するときもありますし、立って読経する事もありますし、座って読経する事もあります。同時に皆で読経するときに、一人が手印(しゅいん)など色々な動作をして、お経の意味を表すこともあります。また、大勢の僧侶がいっせいに、大雄殿のご本尊のある仏壇をを囲むように歩きながら読経をすることもあります。人数が多くて入りきれない時は外の庭に出て、大雄殿の周囲を練り歩きながら読経することもあります。これは「繞仏礼(じょうぶつれい)」とも、「ホウ仏礼(ほうぶつれい)」とも言われています。
朝の勤行の後、日中はそれぞれが担当している仕事に皆が忙しく励みます。農作業や、水汲み(水道がなかった頃、これは非常に大事な仕事でした)、来客の接待、仏堂内の掃除や警備のような仕事もあります。だいたい夜の八時になると、皆もう一度大雄殿に集まって、夜の勤行を行います。これは一年三百六十五日、毎日行われているものです。
だいたい朝と夜には、「楞厳咒(りょうげんじゅ)」や「般若心経(はんにゃしんぎょう)」や「阿弥陀経(あみだきょう)」などが読まれています。またそれ以外にも、個人の修行レベルの度合いによって、「楞伽経(りょうがきょう)」や「十地経」、「仏七儀規」などが読まれます。夜になると、千仏殿に明かりをともし、先生の指導の元で弟子達が武術の練習を行います。これは、対外的にされる話しであって、庭には明かりがないので結構暗いのですが、実際は庭でも練習を行います。このようなリズムで、昼間は先生から指示された仕事をし、同時に朝晩の勤行で読まれる経文がいつでも言えるように、常に唱えています。これは、どんなに忙しい中でも時間を作って勉強するという事で、いつでも仏典に慣れ親しんで覚えるようにしています。経文(きょうもん)を学ぶ時は、常に経文を手にし、目は常に経文を見、耳は常に読経(どきょう)の声を聞き、口は常に経文を読み、心は常に経文のことを思って、悟っているという状態にします。このようにしていると、とても早く経文を覚えます。そして同時に雑念がはらわれ、自分の本性(ほんしょう)が清らかになり、悟りの心境に達するようになるのです。
深く悟った、高齢かつ徳(とく)の高い僧侶は、毎日弟子に仏教の授業を行うほかに、自分もまたより一層のレベルに達するために深く研究し、修行を怠りません。(おこたりません)ある少林寺の僧侶は、「修行のレベルには浅いものと深いものがあり、悟りのレベルには高い低いがあり、みんな違います。一人の先生が教えた中でも、弟子のレベルは高いものも低いものも色々あります。」とおっしゃっています。
僧侶達は、このように日夜修行に励んでいるわけですが、それは一体何のためなのでしょうか。中国のことわざに「どんなに太い鉄の棒も、あきらめずに磨いていけば最後は針になる。」というものがあります。このように、人も精進(しょうじん)努力をつづければ、高いレベルに自然に至る事もできるし、最後は悟って仏(ほとけ)の境地にいたるということです。僧侶達は、「一生懸命修行して、最後は仏教学の一つの学位のようなものを獲得し、世間から尊敬される、いわゆる”悟った人”になりたい。そうして、自分の来世は、西方の極楽浄土に至る。」ということを常に念頭に置いているのです。
さて、そういった悟りのレベルの学位とは、どのようなものなのでしょうか?これは三つあります。第一は、少林寺に入った僧侶は年齢に関わらず、すべて雑役(ざつえき)から始め、仕事をしながら仏教の事を勉強します。もちろん武術も習います。「楞厳咒(りょうげんじゅ)」や「般若心経(はんにゃしんぎょう)」や「阿弥陀経(あみだきょう)」、それに「蒙山(もうざん)」などの経典に習熟(しゅうじゅく)し、よく覚えたあとに、はじめて「沙弥戒(しゃみかい)」を受けて、「沙弥(しゃみ)」という学位をもらいます。沙弥になると、少林寺の和尚(おしょう)の正式な弟子になるのです。次は第二の学位である「比丘(びく)」に向けて修行を始めます。比丘になるには、始めに勉強した五つの経典を基礎として、「法華経(ほけきょう)、楞伽経(りょうがきょう)、金剛経(こんごうきょう)、般若波羅蜜経(はんにゃはらみつきょう」などを勉強します。これをよく理解し、暗唱できるようにしなければなりません。また年齢が二十歳を超えたものは、僧侶が守らなければならない五戒や、少林寺の規則を守って実行し、ある一定レベルの仏性(ぶっしょう)と悟りの境地に至っている場合、「比丘戒(びくかい)」を受けて「比丘(びく)」になります。男性は「比丘僧(びくそう)」、女性は「比丘尼(びくに)」と呼ばれますが、比丘になると、師となって弟子を受け入れることができるようになるのです。
もし、比丘戒を受けたら、さらに続けて仏典(ぶってん)の研究を掘り下げ、人々に説法(せっぽう)ができるまでになります。また、仏法(ぶっぽう)を実行できるようにもなります。また「慈悲(じひ)を基本とせよ」という教義に従って行動でき、人々の利益のために行動し、悟りをひらいた人になるのです。この境地に至った人は、三番目の学位である「菩薩(ぼさつ)」となり、「菩薩戒(ぼさつかい)」を受ける事ができます。
「菩薩戒(ぼさつかい)」を受けるには、まず「五明(ごみょう)」に至らなければなりません。では、この「「五明」とは何でしょう?第一は「声明(しょうみょう)」で、一般社会における音韻学と文学を理解していなければいけません。第二は、「工巧明(こうこうみょう)」で、これは天文・数学などの科学技術や色々な物の作り方に対する常識がわかるということです。第三は「医方明(いほうみょう)」で、医学がわかって、病人の治療ができるということです。第四は「因明(いんみょう)」で、論理学がわかり、世の中のことに対して正しい判断ができるということです。第五は、「内明(ないみょう)」で、仏教学に精通し、悟っていて心が明瞭であることを指します。この「五明」の状態を身につけた人だけが、仏教の慈悲の心を体現したり、世の中の人々を救うことができるのです。
第三の菩薩戒をうけた人は、「菩薩」と呼ばれます。少林寺でも「菩薩」と呼ばれている人は少ないです。在家の弟子はまた別で、武術の方は武術の方でまた別の方法があります。武術は段位があって、自分が覚えている内容と練習年数によって定められています。これは以前はなかったのですが、最近になって中国全土共通の基準が制定されました。外国、とくに日本でも、それを参考として段位が制定されています。段位は一段から九段まであって、一般には八段や九段はあまり多くありませんが、九段が終わったら師範になります。武術は僧侶だけではなく、もちろん武術学校の先生も勉強しています。いま、少林寺周辺の武術学校の最高レベルは、人数はあまりないそうですが、だいたい七段だそうです。五段や六段はまあまあ多くて、30代や40代近くの人がいるとのことです。そんな状態です。
少林寺の僧侶でも、文僧は仏教の三つのレベルを目指します。もっと上には「禅師(ぜんじ)」や「法師(ほうし)」、「律師(りっし)」「大師(だいし)」もあります。武術は一段から始まって九段に至り、師範、最高師範という形になっています。
少林寺の僧侶の管理組織(一)
少林寺はどういう組織管理がなされているのでしょうか?少林寺の僧侶は全国から集まっています。たとえば今の管長は、少林寺がある河南省(かなんしょう)の人ではなくて、他の地方の人です。中国全土から来ているので、様々な姓名の人がいます。様々な人々が集まる少林寺では、どのような組織や管理がなされているのでしょうか。今回は、それを見ていきたいと思います。
少林寺には管理委員会があり、政府から派遣された人もその委員会に参加しています。これ以外に、元々少林寺の中には厳しい管理組織や制度もあります。少林寺の僧侶は、二つの階層がありますが、一つは「執事(しつじ)僧」で、もう一つは「務下(むか)僧」と言っています。「執事僧」はいわゆる管理職で、自分の個室を持っています。そして「務下僧」は執事僧の指示のもとで実務を行い、大部屋に集団で住んでいます。一部の「務下僧」は、自分の師の部屋に住んで、師の身の回りの世話をする者もいます。平日は農作業や、水汲み、掃除などの雑役(ざつえき)をしますが、これらは皆「務下僧」の仕事なのです。
「執事僧」は、また三つに分かれています。一番上のレベルは「監院住持僧(かんいんじゅうじそう)」で、「方丈(ほうじょう)」とも言います。これは、日本語では「管長」ですが、中国では通常「方丈大和尚(ほうじょうだいおしょう)」と言われているものです。少林寺で一番位(くらい)が高い、いわゆるリーダーであり、代々、一代に一人しかいません。この「方丈大和尚」は昔から皆、皇帝によって任命されていました。
二番目のレベルは「四大班首(よんだいはんしゅ)」と言って、四つの役職があります。一つ目は「首座僧(しゅざそう)」と言って「方丈大和尚」の助手をしますが、日本語で言う所の副管長です。首座僧の通常の仕事は、寺全体の僧侶と外部からきた僧侶の講座や説法(せっぽう)のためにする仕事であり、仮に「方丈大和尚」が亡くなられた場合は「首座僧」が次の「方丈大和尚」つまり管長になります。二つ目は「西堂僧(せいどうそう)」で、主な任務はお堂の管理であり、受戒(=一般仏教の戒律を受けて僧侶になること)の儀式を行ったり、副管長である「首座僧」に代わってお経に関する授業や説法を行います。管長や副管長がお寺にいらっしゃらない時には、少林寺全体の事務を取りしきります。いわば、寺の中で三番目に偉い人です。三つ目は「後堂僧(こうどうそう)で、少林寺全体の規則や制度を管理しており、会議の開催責任者でもあります。少林寺全体の僧侶が戒律・規則を守っているかどうかを検査をし、賞罰を実行していますが、その他に弟子の受け入れの是非や、除名に関する権限も持っています。四つ目は「堂主僧(どうしゅそう)」で、図書館の館長のようなもので、経典の管理を任されています。少林寺の蔵書の中には、五経などの経典はもちろんのこと、武術にかんする資料もあり、図書類の収蔵や追加購入、一般開放、閲覧、貸しだし等の責任者なのです。四大班主は、このように、それぞれが大事な役割を持っています。
第三レベルの執事僧は、八大執事と言われるものです。一番目は「知客僧(ちきゃくそう)」といいますが、管長への会見、他の寺から来た客である僧侶や在家の弟子への接待、寺同士の付き合い、一般社会との間に起こった一切の事務に関する処理など、交渉ごとを管理する責任者です。二番目は「当家僧(とうかそう)」で、寺全体の財務責任者で、金銭の管理をしており、これには僧侶達の生活用品を始めとして生産用品・食費・住居費・医薬費・お茶代が全て含まれています。三番目は「庫師僧(こしそう)」で、寺全体の仏具や、穀類や野菜などの食糧の保存と倉庫の管理をしています。また、「当家僧」と協力して、寺の財務管理に当たっています。四番目は「寮院僧(りょういんそう)」で、寺全体の上下関係に関する礼儀の責任者で、祝日の行事のプログラムの手配をしたり、「知客僧」と協力して来客の接待・食事・宿泊の手配もします。五番目は「僧値僧(そうちそう)」で、「後堂和尚」と協力して、寺全体の戒律が守られているかどうかを検査し、賞罰に関する権利を持っています。いわば、警察官のようなものです。六番目は「維那僧(いなそう)」で、寺全体の参禅(さんぜん)や面壁(めんへき=壁に向かって瞑想)の責任者で、朝晩の勤行(ごんぎょう=お経を読んで、おつとめを行う事)を指導しています。七番目は「点座僧(てんざそう)」で、寺全体の食事と住居の手配を管理し、正月など祭日の食事や生活の改善・招待客の手配などを行う役職です。八番目は「監督僧(かんとくそう)」で、「当家僧」と協力して、日常の事務を処理しています。今までに述べた一番目から七番目の役職の僧達の目が行き届かないところは、この「監督僧」が全て行います。四大班首および八大執事が管理しきれない事柄が出てきた場合、寺の全ての執事僧は当家僧に申し出て、人手が足りなければ当家僧を通して「務下僧」を集めてもらって行うこともあります。
この他にも色々あります。そのなかで最高師範は、大学の教授のようなものです。大学で言えば、事務部長や人事部長、総務部長のような役職が執事僧であり、最高師範は教授に相当するものです。最高師範は少林寺の武術と禅の修業の学問のにおける一番上の役職です。さっき話した僧侶の日常生活を管理するものとは、ちょっと違います。
少林寺の僧侶の管理組織(ニ)
少林寺はこのような制度で管理されており、中国全土の各地方からやってきた僧侶が、統一された一つの組織に構成されているわけです。少林寺の場合は、「六和(ろくわ)」を通して「六度(ろくど)」に至ります。
この「六和」は僧侶同士の付き合いにおける六つの原則を指しています。一番目は「戒和」といい、大勢が共同で生活するに当たって互いに監督し、互いに制約しあい、共同で仏教の戒律を守ります。「和」は調和と言う意味ですから。二番目は「見和(けんわ)」で、大勢がみんなと同じ考え方で修行する事を要求するものです。三番目は「種和(しゅわ)」で、みんなは全て平等に、集団の財物を利用すると言うことです。四番目は「身和(しんわ)で、大勢が共同生活する上で、互いに世話をし合い、関心を持ち合うということです。五番目は「口和(こうわ)」で、言葉の上でお互いに良い方向へ導きあい、啓発しあって、仏教の道理を共同で理解しあい、互いに間違った方向へ行かないようにしあうということです。六番目は「意和(いわ)」で、皆が魂の深い部分から友愛をいだきあい、互いに尊重しあい、一致団結する事を求めているものです。このような六つの原則を通して、皆が親密になり、仲良くしていれば、同じ速度で「六度」に至り、彼岸(ひがん)いわゆる悟りへと到達できるわけです。
では、「六度」とは何でしょうか。六つの仏教の理想世界を指しており、極楽(ごくらく)へ行ける方法を教えています。
第一は「布施度(ふせど)」ですが、「布施度」には三種類あります。一つは「財施(ざいせ)」で、自分のお金や物、物質利益を大衆にあげることで、そうすると他人の苦しみを解脱(げだつ)させることができます。少林寺の僧侶はここ何年かは、寺の財産の中からアフリカの災害地域に金銭面での援助をしたり、病院の建設をしたりしています。一つは「無畏施(むいせ)」で、自分自身の頭や目・手・足から命にいたるまで全てを使って、他人の安全を守ったり、あるいは他人の生命の危機を助けるということです。だから、他人の生命や財産・安全を守るためなら、自分は何も怖くない。自分の身体や命が怪我をしたり、損なうことをも心配しません。歴史上、少林寺の僧侶は、この教義に従って行動しているので、唐王(後の「唐の太宗」)李世民(り・せいみん)を助けたり、盗賊征伐をしたりして、自分達の生命の危機を全く顧みませんでした。最後の一つは「法施(ほうせ)」で、仏教の理論を講演などによって一般の人々に知らせ、迷いをといてもらって、悟りへの道を歩んでもらうということです。
第二は「持戒度(じかいど)」で、一般の人々の利益のために、一切の悪い行いが生まれないよう防止するということで、善行を積んで、色々いい事だけをするということです。
第三は「忍度(にんど)」で、一般の人々の利益のために、殴打や誹謗中傷・飢餓・貧困などあらゆる困難に対し、自ら進んで忍耐します。「なし難き事をなし、忍び難き事を忍ぶ」ということを通して、一般の人々を仏教によって救うという信念を持って修行をするということなのです。
第四は「精進度(しょうじんど)」です。これは、自分の一生を通して、自分や他の人々を救済し、他人を助け、自分自身も目標の所へ行けるように、一生たゆまず努力しつづけるということです。
第五は「禅定度(ぜんじょうど)」です。これは自分の座禅・瞑想を通し、精神修養の行動を通して、他の人々に影響を与えるということです。
第六は「般若度(はんにゃど)」です。これは、上記の一度から五度までを通して、世の中の人を、迷いの中にある状態から、仏教で言う目覚めた状態に連れていき、聡明で智慧のある悟った人にするということを意味しています。
最後に、禅宗である少林寺には、なぜこんなにも多くの執事僧による役職は置かれているのでしょうか。この目的は、僧侶達がみな仲良く共に悟りの道を歩めるようにするためです。同時に、さらに多くの人々にも、同じように悟りの道を歩んでほしいという願いからでもあります。また、自分と他のあらゆる人々が、迷いに満ちた状態から悟った状態へと解脱(げだつ)し、悟りの世界の人になることができるようにもするのです。
少林寺の規律や戒律はどれだけあるか?
少林寺の元である仏教の中には数え切れないぐらい多くの、規律と戒律があります。仏典の中に定められた規律と戒律はどれぐらいあるのでしょうか?ある僧侶の話によれば、やく五千余りあるとのことです。一人の仏教徒が出家して僧侶になった場合、このように数多くの戒律の中で生活しなければならないのです。
この五千幾つの戒律があるわけですが、出家して仏門に入ると、まず「四進規(よんしんき)」という決まりを守らなければ行けません。「四進規」の第一は「舎貪愛規(しゃたんあいき)」です。これは、一心に仏(ほとけ)に向かい、純真な心を持ち、執着につながるため全ての愛を捨て、苦悩に満ちた俗世間からの解脱(げだつ)を図ってこそ、仏を信じて出家できる、ということです。第二は「四無規(よんむき)」で、殺したことがなく、盗んだことがなく、淫らなことをしたことがなく、でたらめな言動をとったことがない、ということです。もし、家族に対する何かしらの願望や希望といったものが生じたら、その人は自主的に還俗(げんぞく)して、僧侶をやめるべきです。第三の、「三限規(さんげんき)」は、出家する時に受ける三つの条件を指しています。まず、両親の同意がなければ出家できません。次に、五体満足な身体であり、病理学で言う精神的に問題がない場合のみ、出家できます。最後に、国家の法律に違反したり、他人に債務がある人は、出家できません。第四は「十引進規(じゅういんしんき)」で、出家の時に必ず十人の紹介者がなければならないということです。紹介者になる人は、比丘戒(びくかい)を受けて満十年以上になる僧侶でなけれなりません。出家の規律は非常に厳しいものですが、最近ではこうした「四進規」に従って少林寺に入る手続きをする人は少なくなりました。
少林寺に入った後も、「三規(さんき)、五戒(ごかい)、十善(じゅうぜん)」の三つの規律を守らなくてはいけません。「三規(さんき)」とは、心の底から、仏に帰依(きえ=心から信じる)し、仏法(ぶっぽう、=仏教の道理)に帰依し、僧侶に帰依する、つまり三宝(さんぽう、=仏、法、僧)に帰依することを求めるものです。仏に帰依するということは、もし自分の命を落としても俗界(ぞっかい)にある魔障(ましょう=修養の心の妨げになるもの)の誘いを受けず、釈迦如来の教えこそが正しいのだと言うことを信じることです。仏法に帰依するとは、命をなくしても、他の書籍や学説に惑わされず、四十二章の仏典こそが最高のものであるという信念を持つということです。僧侶に帰依するとは、命を捨てても、外界の邪悪な誘いに乗らず、仏門の僧侶であることを至上とするという信念を持つことです。
「五戒(ごかい)」とは殺(=あらゆるものの命を奪って殺さない)、盗(=他人のものを盗まない)、淫(=一切の性生活を行わない)、妄(=嘘の言動を行わない)、酒(=飲酒しない)という戒律を徹底して守るということです。「十善」とは、五戒を基礎として生まれたものです。「十善戒」は更に一歩進んで、身業、口業、意業の三つに分かれて、話す面と意識の面というように、細かい制限があります。
「三規、五戒、十善」の戒律を守ることは、最低限の条件です。この「三規、五戒、十善」以外に、「十戒、四念住、四正勤、四神足、五根、五力、五停心、七覚支、八正道、三十七道品、二百五十条具足戒、七重二十八軽戒」と、数多くの戒律があります。このように数多くの規律・戒律があるのは、修行して心身を浄化するためです。
こんなにたくさんの戒律を守らなければならないとしたら、どうやって僧侶達を監督しているのでしょうか。寺院の中の「僧値和尚(そうちおしょう)」が毎日監督する以外に、半月に一回「布薩蝎摩大会」を開いています。その時、僧侶達は戒律を読み上げた後、戒律に従って一人一人が自分の反省点を発表します。自分がこの半月の間に行ったことを自己反省し、自らの過失について率直に告白するわけです。その後、別の人からの指摘も受けます。しかし、ここ最近の数年間、少林寺では一日当たり一万以上の観光客を受け入れなければならず、このように長い話し合いの場を持つことがなくなってきているので、 将来この制度は消滅してしまうかもしれません。少々心配しています。
少林寺の規律・戒律はたくさんですが、最も基本的な「五戒」の中に、「殺すなかれ」というものが含まれています。では、死刑にすべき罪を犯した人の事を、仏教ではどのように考えているのでしょうか。仏教には「因果律(いんがりつ)」という言葉があります。これは、良いことをすれば、自分に良いことが起こり、悪いことをすれば、それは自分に帰ってきて悪いことが起こるということです。仮に自分に帰ってこなかったとしても、それはまだ時間になっていないだけで、いずれ自分に帰ってくるのです。だから、良いことは賞賛し、悪いことは懲罰する、これは仏教の根本です。それゆえ、殺人犯は、自らの命で罪を償わなければならないのです。少林寺にいる僧侶達は必ず法律を守らなければなりません。少林寺に入りたい人が、仮に法律違反している場合、入門は出来ません。特に、殺人犯や国家と国民の利益を侵した犯人は、全て逮捕されるべきです。お釈迦様は弟子達に、戒律を授けて、あらゆる生命を奪ってはならない、つまり殺してはならないとされましたが、この戒律と死刑とは全く別物です。一つは、仏門の弟子として守らなければならない戒律、もう一つは国家の定めた法律ですが、この両者を混ぜてしまうことはよくありません。
中国の仏門では、極悪犯に対しては死刑に処すべきであると考えていますが、では死刑執行者は「殺戒」を犯すことになるのでしょうか。少林寺のある大師は、次のように考えておられます。「これは”開”と”遮(しゃ)”の問題であると言えます。通常の状況のもとでは、もちろん戒律を違反することは許されていませんが、これを”遮”と呼ばれています。しかし、特別な事情の時には戒律を違反することが許されており、これは”開”と呼ばれています。例えば、唐の太宗(李世民)は、少林寺の僧侶に”飲酒と肉食を許し、悪い者は殺しても構わない”と言い渡しましたが、これは皇帝と食事を共にしたり、世の中の平和のためには極悪人に対して戦うといった、特殊な状況のときのことであり、その時は”開”を行って戒律違反をしても構わない、ということなのです。だから、死刑が言い渡された犯罪者に対しても、死刑を実行することはできるのです。こうした死刑実行者は、逆に仏法を守る「護法神将(ごほうしんしょう)」と考えて良いと思います。
仏教では、必要に応じて”開”つまり必要に応じて戒律違反するということは、仏法を護るという意味があります。開祖の達磨大師が面壁九年(壁にに向かって瞑想していた)時、ある日暴徒が達磨大師を殺そうとしたことがありました。その時、二祖の「慧可(えか)」は刀でその暴徒を殺しましたが、これは「開戒」ですから、誰も非難しなかったし、逆に賞賛さえされました。少林寺の天王殿にある四天王(してんのう)の足の下には、仏教徒人々に害をなす鬼や妖怪の類があって、踏みつけられています。これは、「開戒」の一つのあらわれであると言えましょう。
仏教に、数え切れない戒律が設けられている目的は、三つです。第一は、「悪いことはしない」、第二は「良いことをたくさんする」、第三は「いつでもどこでも、世の中の人々の利益を考えて行動する」ということです。
少林寺の僧侶のように、世の中の人々が皆、ここにあげたような規則や戒律を守ったならば、社会は安定し、人々は幸せに過ごすことができるようになるので、理想的な社会になるでしょう。
少林寺の子孫僧とはどういう意味か?
少林寺には「師徒はすなわち父子なり(=師と弟子は、親子の関係に等しい)」という言葉がありますが、これは少林寺の特徴を最も良くあらわすものであり、他の寺院と異なる点でもあります。元朝以来、少林寺の僧侶はすべて子孫僧とされていますが、その間には師弟関係があり、それは親子関係とも言われています。そして、現在にいたるまで、代々厳密な家系譜が伝えられています。少林寺の僧侶は、すべて師の養子だったり、義理の子供だったりするのです。だから、その家系譜には、一般の人々の家系譜と同じく「高祖の代、曽祖父の代、祖父の代、父の代、自分の代、子の代、孫の代、玄孫の代」といったように、一代一代受け継がれてきています。
少林寺以外の、他の寺院の僧侶は「十方僧」です。「十方僧」とは、すなわち僧侶間の関係は、師弟関係があるのみで、父子関係はないというものです。最近の何年間は世界的に少林寺ブームが起こっており、それにともなって少林寺の僧侶を騙る(かたる)、ニセモノが出回ったことがありますが、少林寺の師弟関係のことがわからないので、すぐばれてしまいます。
少林寺のこうした師弟関係は元朝から始まりました。元朝の初め、皇帝クビライは「雪庭福裕」大和尚を「国師」の職に任命し、前後して「無言道公」や「菊庵照公」など十八人の大師が皇帝に祖師として任じられました。こうして皇帝から位を与えられた十八人の大和尚を祖師として、十八の家族にわかれたのです。これが少林寺で言われている「十八門僧人」であり、「十八門頭僧」とも言われています。以前もお話しましたが、この十八家族は少林寺の常住院の周囲に住んでおり、それぞれの家風があります。元の時代に「雪庭福裕」大和尚は、僧侶につける法号を代ごとに定め、七十の輩号を決めました。
福慧智子覚、了本圓可悟。
周洪普広宗、道慶同玄祖。
清浄真如海、湛寂淳貞素。
徳行永延恒、妙体常堅固。
心朗照幽深、性明鑑宗祚。
衷正善喜祥、謹愨原済度。
雪庭為導師、引汝帰鉉路。
今の管長は「永」の字を使用しており、元の時代から始まって三十三代目にあたります。私は僧侶ではありませんが、「釈 延平」という法号をいただいており、三十四代目になります。
少林寺の管長は非常に厳しい条件で選ばれます。今の管長の先生である「徳善大師」が1989年に任命されるまで、少林寺には300年間ぐらい管長が存在しませんでした。管長は代々国から任命されないとなれません。今の管長も、もちろん中国政府から任命されています。
管長に選ばれるには、四つの条件が必要です。第一は、修行を積んで高い能力を有しており、徳が高く、人望も厚いこと。仏教学の上で高い教養を持ち、中国全土の仏教界に大きな影響を持つ少林寺の子孫僧であること。第二は「三経」、すなわち「経」と「律」と「論」の三方面に精通していること。「経」とは、仏教の経典に精通しており、仏教の道理に詳しく、高い学位を持ち、深い内容をわかりやすく簡単に説明でき、また多くの僧侶達から賞賛されているということです。「律」は、禅門における”仏、法、僧”も三帰、”殺、盗、淫、妄、酒”の五戒、十善などの戒律を良く守り、皆の見本となって応用できると言う事で、みんなの師となれるということです。「論」は禅門の理論について高い修行を積んでおり、禅について理解しており、世の中の変化に対応してちゃんと応用でき、自分だけではなく他の人も正しい道へと導くことが出きるということです。
第三の条件は、顔立ちが整っているということです。堂々とした態度をとることができる、お客さんの接待能力がなければだめですから。
第四の条件は、昔は朝廷からの任命、今は国からの任命でなければいけないということです。これは唐の太宗「李世民」の任命から、現在に至るまで続いている制度です。しかし、清(しん)の時代、1666年から300年ほど管長不在の時代が続きました。しかし、その当時は、管長の次の「首座(しゅざ)大和尚」と「西堂大和尚」が代理で、管長の仕事をしていました。
少林寺で仏教、儒教、道教の三派は合流した
少林寺には、ここ数年、多くの観光客が訪れていますが、地蔵殿に入ると、地蔵菩薩の後ろに、儒教で言う「二十四孝図(注:“二十四孝”とは親孝行をした話で、二十四人分の話があるため)」が壁画に描かれています。これを見た中国人の観光客達の中には、管長を探して「お寺にどうして、儒教の「二十四孝図」があるのはおかしい。消してください」という人達がいます。しかし、これは、よく知らないから言っているのであり、こうしたことこそ少林寺と他の寺院が違う特徴なのです。
「二十四孝図」が少林寺の地蔵殿に描かれたのは、約七百年前の元朝の初めのことでした。現在少林寺の僧侶達は先祖が伝えてきた教義を守っており、他人の言葉を軽軽しく信じたりしません。少林寺には道教の「(こう)、哈(は)」二神将だけではなく、儒教の「二十四孝図」も仏堂に入っていますし、それだけではなくもろもろの宗派が全て寺院に入っており、大雄殿の前は「混元三教九流図賛」の巨大な石碑が建てられています。こうした思想の元々は、南北朝の頃から始まっていました。
魏の孝文帝が少林寺を建ててまもない頃、少林寺の僧侶を非難する人達がいました。その人達は、「少林寺の僧侶は礼儀を守っていない。ただ合掌しているだけで、ひざまずかないというのは、親孝行ではない証拠である。」と言ったのです。これは、親にはひざまずいて挨拶しなければならないという、儒教における礼儀を守っていないということを責めています。仏教はもともとインドから伝わったものですから、僧侶の礼儀に対して、こんな風に言ったわけです。だから仏法を宣伝するのは礼儀に反しているので、信じてはいけないとされたのです。伝説によれば、当時第二代管長であった慧可(えか)は、お釈迦さまが両親を尊敬して色々親孝行した物語を話しました。その物語を話し終わった後、慧可は「仏門の弟子として、両親に親孝行し、国家や皇帝に忠義を尽くすのは当然のことです。仏教は合掌だけでひざまずいて挨拶はしませんが、これは仏門の習慣であり、個人的な親孝行の礼節の障害にはなりません。ただ習慣的なものなのです」と語ったのでした。
元朝の至元年間に世祖クビライは、雪庭福裕大和尚を国師、すなわち中国で一番位の高い僧侶に任命し、少林寺の管長でありながら、中国全土の僧侶達のリーダーになったのでした。福裕和尚は、仏教と儒教の間に存在する対立を解決するために、毎月の三と六と九がつく日は人々を集めて説法を行い、その中で特に儒教の親孝行について話をよくしました。この親孝行の話というのは、もちろん、元々儒教の中にあったもので、特に「二十四孝」の物語について話しました。福裕大師がこの話しをした時、同時に画家が絵を描き、地蔵殿の後ろの壁に壁画が描かれることになり、「二十四孝図」になったわけです。
明朝の嘉靖(かせい)年間、少林寺の僧侶は仏教だけを認めたのではありませんでした。仏教・儒教・道教を一つにすることを認めただけではなく、お釈迦さまや儒教の祖である孔子、道教の祖である老子を、みな尊敬すべき先生であるとしました。色々な流派を一つにするという考え方です。それゆえ、大雄宝殿の東側には「混元三教九流図賛」という石碑の上に描かれた絵があります。それは、お釈迦さまと老子と孔子の三人が一体になったもので、人に深く考えさせる絵だと思います。正面から見るとお釈迦さまで、右から見ると孔子、左から見たら老子に見えます。三人の身体と服はつながっており、分けられません。少林寺では、仏教と儒教・道教の三教が一緒になり、色々な流派も一緒になっています。少林寺がこんなに有名なのは、各流派の優れた部分を持ってきたからで、これも他の寺院とは異なるところです。また仏教だけではなく武術も行うという点でも、少林寺は他の寺院と異なっています。学問としては、仏教だけではなく、他の良いところを全部集めて集大成しましたが、これは少林寺が長い歴史の中でずっと有名であり続けた、重要な原因ではないかなと思っています。
少林寺武術の創始者はダルマ大師ですか? 「前編」
少林寺は禅宗発祥の地で、歴史のある文物や遺跡がたくさん残されており、静かで景色も美しいところです。その一方で、少林寺の武術、すなわち少林拳も有名で、ある意味仏教より有名です。これはどうしてでしょうか?普通、お寺は静かなところで、僧侶は慈悲の心を持つものです。なぜここに武術が生まれ、1500年の間武術を練習してきたのでしょう?どうして僧兵はいたのでしょうか?仏教の教えと武術はどこでつながっているのでしょう。
ダルマ大師が少林寺に来た時、達磨洞というところに九年間「面壁(めんぺき)」、すなわち壁に向かって座禅を組みつづけました。インド人であるダルマ大師は、何もない山の中でどうやって生活していたのでしょうか。山中に自生する果物や川の水、降り積もった雪を口にしていました。それと同時に山中に住む虎や狼、猿、など様々な動物とも戦わなければならなかったし、山賊などの人とも戦わなければなりませんでした。毎日座禅を組んでいると、筋肉が衰弱し、血行の循環も悪くなるし、疲れやすくなります。だから、座禅を組んだ後は、身体を動かして運動し、心身の健康を図るようにしていました。生きぬくために、そして野生動物や山賊に対処できるよう、ダルマ大師は常に洞窟の外に出て武術の練習をしていました。しかし、武術の練習をしようにも、山の中ですから場所もそんなに広くないし、もちろん器械もありません。だから、ダルマ洞の前のけっこう狭い場所で行い、山にある木の枝を折って、それを武器として練習していました。野生動物や山賊の急所を研究するために、虎や龍、猿など野生動物の動きを真似た練習もしました。
またダルマ大師の弟子の慧可(えか)は、前漢の伝説的名医である華佗(かだ)の著書「五禽劇(ごきんげき)」を元にして、「羅漢十八手」という武術の型をつくりました。それから更に研究を続けて、「心意拳(しんいけん)」と「羅漢棍(らかんこん)」という型をつくりました。ダルマ大師は、嵩山の上の五乳峰という狭い場所で練習していましたから、その技のスタイルは「拳打臥牛地、出手一条線(=拳は牛の体長ぐらいの所までで打つこと、拳は必ず同じ線上で出すこと)」という特徴を持っていました。その後、ダルマ大師は弟子達と一緒に練習し、「達磨易筋経(だるまえききんけい)」という本を書き上げましたが、これは現在にも伝えられています。このようなことから、ダルマ大師は禅宗の創始者であるだけではなく、武術の創始者であるという人もいます。
少林寺の僧侶は、上から伝えられたこのような話を聞かされています。しかし、「少林寺志」という本には、少林寺の武術は「バッダ和尚」が始めたという記載があります。北魏の孝文帝の時代、西暦495年にインド人僧侶「バッダ」の下に、武術ができる少年達が僧侶として入門しました。その中の一人である「慧光(けいこう)」は当時12歳でしたが、優れた運動神経を持ち、ジエンズ(=バドミントンの羽根球のようなものを、地面に落さないように足で蹴りつづける遊び)が500回もできました。普通の人は数回で終わってしまうのですが。この「慧光」は少林寺で初めての武僧になります。
また、もう一人は、バッダの弟子で「僧稠禅師(そうちゅうぜんじ)」と言います。少林寺に入ったばかりの頃、身体が虚弱なために、他の僧侶達からいじめられていました。「僧稠」は決心して、武術の練習を始めたのですが、夢の中で金剛菩薩から教えを受け、また本人も努力したため、最後には力も非常に強くなり、高いレベルに到達しました。伝説によれば、二頭の虎がある時食べ物争いをして闘いはじめたのですが、「僧稠」は小さな杖一つで虎二頭を引き離して追い出したということです。こうしたバッダ和尚が少林寺武術の創始者であるという話しもあります。
少林寺武術の創始者は誰かということについては、諸説あり、これがそうだというものはありません。少林寺の僧兵は数多く、これまで二千名がなったと言われています。大雄宝殿の前にある、唐代に太宗「李世民」が自ら筆を振るった「太宗文皇帝御碑」は、僧兵が盛んであったことの証拠だと言えます。唐が建国される際に、少林寺の僧兵13名が太宗を助けて活躍した話は、映画「少林寺」でも描かれているので、皆さんもご存知のことと思います。その時から、少林寺の武術はさらに盛んになり、中国全土で有名になったため、各地の有名な武術家が少林寺に集まって練習するようになりました。
少林寺千仏殿地面の練功穴 前編
少林寺の武術は非常に有名なので、少林寺を訪れたことがない人は、「少林寺の僧侶は武術を練習しているので、大殿(注:いわばメインホール)の床が擦りへって、くぼみができていると聞いているかもしれません。しかし、少林寺へ行ったことがある人なら、そうした練習による「くぼみ=練功穴」は少林寺の常住院の後ろにある「千仏殿」あるということを、みな知っています。 千仏殿の床は正方形の敷石が敷き詰められているのですが、深さがそれぞれ異なる四十八のなべ底のような練功穴があります。この四十八の練功穴は横四列に並んでいて、前後左右の間隔は2メートル余りあり、平らになっています。そして、一番深いもので50ミリあります。こうした練功穴は、武術の練習で出来たものなのでしょうか?どうして四十八だけなのでしょう?そして練功穴の深さはどうして皆異なっており、きちんと並んでいるのでしょうか?
これは実演すれば、すぐわかりますが、こうした練功穴は、千百年来僧侶達がここで武術の練習をして出来たものなのです。では、こうした練功穴は、なぜ均等の間隔でできたのでしょう?もともと、少林寺武術では足技を特に重視しており、俗に「南拳北腿(=なんけんほくたい/注:南の流派は手による技が中心、北の流派は足による技が中心であること)」と言われています。少林寺は北の流派に属しているので、入門して武術を習う場合、まず三年間、站チュン(タンチュン)、蹲チュン(ソンチュン)、恨脚などの足技について勉強しますが、その時「手は扇子のようなもので飾りであり、全面的に脚に重点を置いて攻撃しなければならない」と指導されます。師が弟子に教える時、脚の基本功に対する要求は何よりも厳しいものです。
数十人の僧侶が千仏殿で両手を水平に上げ、前後左右との距離を保ちます。壁と12本の柱と中央にいらっしゃる「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」の仏壇があるために、動ける広さには限度があり、四十八人しか入れないのです。いつも決まった位置で足技の練習をするので、長く続けていくうちに、この四十八の練功穴が自然と形成されていったわけです。では、中央にある二つの練功穴は、なぜ他のものより深いのでしょう?これは「少林拳打一条線」という特徴に由来するものです。
少林寺で武術の練習をする場合、常に一つの線上で龍が身を躍らせ、虎が跳ぶように動かなければなりません。そして、練習者に対する要求は厳しく、難度が高い「心意把」を練習しなければならないのです。「心意把功は三年学んでも習得できない」ということわざがあるほど難しいものです。「心意把」の練習するときは、燕が空を飛ぶように跳躍し、次に泰山(たいざん=中国の名山)に頭を抑えつけられたかのように下にしゃがみます。この飛び跳ねる動きと、しゃがむ動きは、2メートルぐらいの高さで行われます。開始位置は壁や柱によって固定されており、着地点はおのずと一つの位置に固定されます。この練習を行うにあたって、師は一人の訓練のみを反復して行わせますが、誤りがあれば即座に直すことによって、見学している他の弟子達にも技を学ばせます。このような訓練が長年にわたって行われてきたので、中央の練功穴が他のものよりも若干深くなっているのです。
以上お話したように、千仏殿の練功穴は足技の練習によって出来たものだということがおわかりになったと思います。少林寺武術ではさらに「軽功」を重視しています。「軽功重練」ということわざがありますが、「軽功」とはどんな練習なのでしょう?くるぶしの上にあるふくらはぎの部分に、鉄砂や「じゃり」などを詰めた袋をくくりつけ、練習をするのです。
はじめは、足一本につき500グラムの重さをつけます。足に砂袋をくくりつけたら、後は寝ている時でも、天秤棒を担ぐ時も、とんぼ返りの時も、武術の練習の時も簡単にはずすことは許されません。入浴時のみ、はずしても良いのですが、そのあと改めて別の砂袋につけかえてもよいとされています。練習時に砂袋が負担ではないと感じた頃に、250グラムか100グラム単位で増やしていき、最終的には5キロか10キロ、あるいはもっと重くすることもあります。この練習によって、各個人の根気と苦しみに耐える精神を見ることになります。
少林寺捶譜堂にある泥人形の意味 前編
少林寺の白衣殿にある北山壁には、少林寺武術の中の「六合対打撃譜」が彩色で描かれています。南山壁には「双刀破槍」と「稍子棍破大刀」などの武具を使った練習図になっており、「捶譜堂(すいふどう)」と呼ばれています。
現在、山門から出ている道の西側には、もと「達摩西来堂」の跡地がありますが、新たに「捶譜堂」が建てられています。「捶譜堂」は、廊下でぐるっと囲まれた建築物で、中には全部で14組の等身大の泥人形があります。
一番目は「座禅」ですが、「禅坐」とも「坐静」とも言われています。座禅をする時の姿勢は「結跏趺坐(けっかふざ)」といい、あぐらをくむようにして座ります。このとき、組んだ足の先の一方は、脚の付け根にあたるようにします。手を合掌させ、両目は軽く閉じ、舌は上の歯の付け根にあたるようにします。呼吸を調整し、意識を集中させて、雑念を取り払い、黙って「阿弥陀仏」を唱え、「人定(れんじょう)」の境地に至ります。「人定」とは、心が完全に純粋であり、寝ているような寝ていないような状態であり、ダルマ大師が創立なさった禅宗が持つ、最も顕著な特徴です。
現在の少林寺の僧侶は大部分の者が、朝夕の勤行(ごんぎょう/=読経による修行)の時、鐘などの仏教楽器による伴奏と共に「南ナンー無ウー楞ランー厳イエン」といった梵語(=サンスクリット語)による仏典を、「結跏趺坐」した状態で、僧侶が一斉に暗唱して読み上げます。その他の時間は、各々が自分で座禅して瞑想します。
二番目は「繞仏(じょうぶつ)」で、「ホウ経(ほうきょう)」ともいいます。これは、座禅の時間が長くなると、身体を動かす必要が出てくるということです。
その昔、ダルマ大師は長い間瞑想のために座っていたので、体を動かす必要が出てきました。一般の僧侶も、朝晩の勤行の間に立ち上がって体を動かさなければいけません。お釈迦さまの周りを一周するのですが、通常三周します。人が少ない時は仏壇の周りですが、多い時には仏殿のまわりをまわります。この「繞仏」を行う時には、歩きながら「南無阿弥陀仏」を唱えます。
三番目は「八段錦(はちだんきん)」です。この動きは、筋を伸ばし、骨を抜くような大きな動きが要求されます。筋や骨の鍛錬となるような、厳しいものですが、以下に述べる八つの動作が行われます。
双手托天理三焦、(両手は上にあげて天をつき、三焦〔さんしょう=胃の噴門までを上焦、幽門までを中焦、ヘソの下までを下焦といい、消化・吸収・輸送・排泄をつかさどる〕を処理する)
左右開弓似射雕。(左右に手を開いて、ワシを弓で射るようなポーズをする)
調理脾胃単挙手、(脾臓や胃の働きを調節するには、片手を挙げる)
五労七傷向後拔。(身体が虚弱で多病な時には、身体をひねって背後を見るようにする)
揺頭擺尾去心火、(身体全身を横にひねれば、体内の熱を静めることができる)
両手攀足固腎腰。(両手で足をつかめば、腎臓と腰が強化できる)
サン拳怒目増気力。(拳を作ってにぎりしめ、目を怒ったように見開けば、気力が増し、)背後起顛百病消。(後ろに沿ってひっくりかえると、あらゆる病気が治る)
四番目は「小洪拳(しょうこうけん)」少林寺武術の技はすべて、相手の急所を攻撃するものであり、大敗させて、死地に追い込むことを目的としています。これは武術を行う上で必要であるだけでなく、身体を鍛錬する上での必要からも出ています。
「小洪拳」は少林寺武術の中では初級に位置する武術で、比較的簡単なもので、「懐中抱月、白雲盖頂」など100余りの連続した動作からなっています。しかし、練習を積んで自分のものにすれば、実践になかなか役立つものです。
少林寺に留学した、様々な日本人
少林寺は山奥にありますので、交通も不便です。現在でも行くのに時間が結構かかって大変ですが、昔は想像を絶するものがありました。しかし、歴史の中で、遠いことは問題とせず、日本から多くの人々が少林寺に留学しており、たくさんの物語も残っています。日本の少林寺拳法の指導者である「宗道臣」大和尚も、1940年代に少林寺で拳法を学んだことがあり、このことを記念して「日本少林寺拳法開祖宗道臣大和尚記念碑」と刻まれた記念碑も立てられています。私は少林寺の管長から聞いたのですが、日本の少林寺拳法の関係者はよく少林寺を訪れるのだそうです。こうした最近の話ばかりではなく、歴史上でも、数多くの日本人が少林寺に留学しています。
少林寺には六百年前に立てられた、「息庵和尚尚道行碑」という記念碑があります。 当時日本の山陽地方の但州にあった、正法禅寺の住持(じゅうじ)であった「邵元(しょうげん)」和尚という人がいました。「邵元(しょうげん)和尚」は元の時代(=鎌倉時代)1327年に、海を渡って少林寺に留学し、全部で21年間少林寺で学びました。そのとき、少林寺の「息庵和尚」と非常に深い友情で結ばれていました。
「息庵和尚」は当時の管長であった「菊庵照公和尚」を師としていたので、「邵元(しょうげん)和尚」と「息庵和尚」は共に仏の道を学び、武術を練習しました。「息庵和尚」は「菊庵照公和尚」の一番弟子であり、「邵元(しょうげん)和尚」は「菊庵照公和尚」の書記(=秘書)をつとめており、二人は師の仕事、つまり管長の事務を共同で手伝っていたのです。
日本人僧の「邵元(しょうげん)和尚」は本当の仏性(ぶっしょう)を持った人で、穏やかな良い性格だったので、少林寺の僧侶達から尊敬され好かれていました。「邵元(しょうげん)和尚」の法号は「法源」だったので、僧侶達から「古源上人(こげんしょうにん)」と呼ばれていました。管長の「菊庵照公和尚」が亡くなった時に、「邵元(しょうげん)和尚」は非常に上手な古代中国語で、師の死を悼む言葉を書きました。そして、その言葉、つまり「菊庵照公和尚」に対する賛辞と、師に対する哀悼の気持ちを石碑にも刻みました。
西遊記にも出てくる、三蔵法師はインドに赴いて仏教を学びましたが、この文章は、そのときの気持ちと非常に似ていると思います。この石碑は、少林寺の塔林の中に、今も残っています。私達、全日本少林寺気功協会が少林寺を訪れて、塔林へ行くときは必ず、「邵元(しょうげん)和尚」の石碑にも訪れています。
その後、「息庵和尚」が亡くなったとき、「邵元(しょうげん)和尚」はすでに少林寺を去り日本に帰国して、長年たっていました。「息庵和尚」の弟子は、当時の日本が遠かったにもかかわらず、「邵元(しょうげん)和尚」を探し出し、「息庵和尚」を追悼する碑文を書いてくれるように頼んだのです。「邵元(しょうげん)和尚」は兄弟子が亡くなった知らせを聞き、非常に悲しんで涙を流しながら追悼文を書きました。そして、この追悼文は、少林寺で非常に高い評価を得た有名なもので、今でも生きて多くの人に伝えられています。
戦前の日本に留学したこともあり、中国でも高く評価されている文学者「郭沫若(かくまつじゃく)」は、この文章を「この話しは非常に感動的であり、日中友好の見本とも言える、良い話だ」と高く評価し、「邵元(しょうげん)和尚」を」記念した碑文も残しています。
また、他の日本人僧についても、お話したいと思います。「大智禅師」は「邵元(しょうげん)和尚」の後の時代の人ですが、このお坊さんは少林寺に13年間留学して、仏教と武術を学びました。武術の中でも特に棒術を身につけ、少林寺の中で武術の腕比べをしたとき、少林寺のルールで勝って日本に帰国しました。「大智禅師」が帰国したとき、ちょうど侵略者が日本の北方を侵略しようとしていたので、菊池大将を手伝って軍事訓練を行い、日本を守りました。そのとき、少林寺の武術は日本の民間にも伝えられたのです。その後、中国の明の時代の太祖「洪武」年間に、「徳始和尚」は「大智禅師」の遺言によって、少林寺に留学し、22年間仏教と武術を学びました。「徳始和尚」は帰国前に、自分の先生の「淳拙禅師(じゅんせつぜんじ)」のために碑文を作りましたが、それは今も少林寺に残されています。
このように、少林寺には色々な日本人僧の物語が残されており、日本と少林寺の交流は武術および仏教の双方に及んでいます。そして、初めて交流があったのは、宋の時代のことです。それから800年来、途絶えることなく、ずっと続いてきています。日本と中国は様々な分野で交流がありますが、少林寺もまたその一つだといえると思います。
少林寺に来た日本人僧「邵元(しょうげん)」法師とヤドリギの物語 前編
少林寺の管長室の東側にある、「東梅山」という部屋の前には、観光客が数多く集まっています。それは、ヤドリギと柏の木が互いにからみあって生えているからです。ヤドリギの木は結構太くて、バケツぐらいの太さで、その上に、大小さまざまなサイズのツタが蛇のように絡まって生えています。そして、そのヤドリギは、実は非常に太い柏の木に絡まって生えているのです。どれぐらい太いかというと、大人が2人で手をつないで抱えられるぐらいです。木の根と根もつながっているし、幹と幹もからまっていて、枝と枝もからまり、葉っぱ同士も一緒に見えます。その様子は、あたかも生死も共にしているかのような、非常に親密な印象を見る人に与えます。
毎年、春の終わりから夏の初めにかけて、40~50メートルぐらいの高さの木に、すがすがしい良い香りの、小さな白い花が咲きます。遠くから見ると、雲のようでもあり、霧のようでもあり、非常にきれいです。秋の末から冬の初めにかけては、実がなります。濃い緑の葉っぱのに赤い小さな点々がついているのですが、遠くから見ると夜空に星が浮かんでいるようで、これもまた美しいのです。仏門の弟子達はこの光景を目にすると、あたかも西方浄土(=極楽)にあるという良い気に身をおいたような気持ちになることが、往々にしてあります。
このヤドリギが柏にまとわりついている木は、自然にこうなったのですが、それにしても誰がこの木を植えたのでしょうか?元々この木は600年前の元朝の天歴年間に、「邵元(しょうげん)」法師が植えたものです。「邵元(しょうげん)」法師は、前回お話しましたが、日本の山陽地方、但州の正法禅寺の管長でしたが、海を渡って少林寺に学びに来たのでした。「邵元(しょうげん)」法師は、当時の管長であった「菊庵照公和尚」を師として少林寺で21年間学びます。そして「菊庵照公和尚」のもとで、大乗禅法である曹洞の真理を1十五年間学び、また師について書道も学びました。「菊庵照公和尚」はさらに、「邵元(しょうげん)」法師を自分の書記僧(=秘書)」にし、方丈堂(=管長室)の東側にある東梅山房に住まわせました。
「邵元(しょうげん)」は書記僧になってから、兄弟子で首座僧をつとめていた「息庵和尚」との交流が多くなりました。あるとき、「息庵和尚」と「邵元(しょうげん)」は二人で洛陽にある白馬寺(注:中国最古の寺)行きました。「邵元(しょうげん)」が門の前で水を汲んで、天にもつく勢いの古くて幹の太い柏の木の下にはえていた、若く小さな苗木の状態のヤドリギに水をやっていました。
「息庵和尚」はこの様子を見て、笑いながら「弟弟子よ、ヤドリギは四季を問わず、いつも緑だから好きなのかい?それとも、雲のような、霧のような美しい花を咲かせるから好きなのかい?この木は柏の木の隣じゃないほうがいいと思うな。もし、傍にあったら、あまりよく成長できないだろうからね。」と言いました。
「邵元(しょうげん)」はそれを聞いて、「絶対だいじょうぶですよ。育ちますよ。この木がもし柏の木と一緒だったら、頼りにするでしょう。永遠に柏の木について伸びていくので、永遠に緑を保って長生きするでしょう。」と答えました。
「息庵和尚」はそれを聞いて、また笑いながら「君はそんなに長い先のことまで考えているんだな。」と言いました。
少林寺の達磨面壁石はどうやってできたか?
少林寺の文殊殿には北側に不思議な石があります。その石から十数歩離れて見てみると、頬骨が高く、ほおにひげをたくわえ、くぼんだ眼に、濃い眉毛という顔立ちで、はだしで座禅を組んでいる人の姿が浮かび上がってきます。さらには、身につけた袈裟までもはっきりと見えるのです。この石は、歴代の皇帝を始めとする人々によって「達磨面壁石(だるまめんへきいし)」と呼ばれてきました。そして、数多くの文人達がこの石を題材にした詩や文章を作っています。
では、この達磨面壁石は、達磨大師の影が石の中に入ってしまったのでしょうか?
達磨大師が座禅を組んでいる間に石になってしまったのだという人もいますが、はたしてそうなのでしょうか? 達磨大師が初めて少林寺を訪れた時、当時少林寺にいた僧侶達と話しが合わなかったため、五乳峰のchi・you洞で壁に向かって一人で座禅を組んでいました。達磨大師が座禅について教える時、「自分の心を悩ましている外部の事を考えない事。心が壁のように何も考えていない状態になれば、修行の道にはいれます。」と語りました。達磨大師は南インドのバラモン出身ですから、人々は大師の事を「壁観バラモン」とも呼ばれています。達磨大師は自分の心を清浄にし、静かな状態にするため
に、昼間はほとんど壁に向かって座禅を組む事に費やしていました。達磨大師が壁に向かって座禅を組んだ場所は、入り口の狭い洞穴の中ですから、光も入り口の一方向からしか入りません。また座っている場所は、いつも石の前に座っていましたが、洞窟の中は先程も言ったように狭いので、左右も動けません。このようにして、石の前に九年間ずっと座っていたところ、石の上に水墨画のような達磨大師の淡い影が出現しました。この影は、これを達磨大師の影であるとして、後世の人々はこの石を尊び、崇拝するようになったのです。少林寺の弟子達は、これを達磨大師の悟りの象徴であるとし、「霊石」と呼んで、少林寺の宝としてみなして保存してきました。しかし、清朝の中頃に、少林寺の僧侶はこの面壁石が消失してしまう事を恐れて、蔵経閣に保存する事にしました。しかし、1928年に軍閥によって少林寺が焼き討ちされた際に、面壁石は蔵経閣と共に難にあってしまったのです。現在、文殊殿に安置され
ている面壁石は、複製品です。
達磨大師は面壁(めんぺき)九年の後で、弟子達を寺に招き入れ、そして達磨亭をつくって達磨大師の修行の場所としました。またchi・you洞を「達磨洞」と改名し、℃その下に初祖庵(=しょそあん、「面壁庵」とも)を作って、達磨大師が九年の面壁して、石にその影が入るほどの境地に至ったことを記念したのです。
達磨大師は少林寺に戻った後、少林寺禅学の祖となり、それと共に少林寺で学ぶ人達も日に日に増えていきました。達磨大師は数多くの弟子がいましたが、本当に禅の事がわかっているものは「慧可(えか)」や「道育(どういく)」、「尼総持(にそうじ)」「僧副(そうふく)」、「曇tan林(たんりん)」などであると認めていました。そして達磨大師は亡くなる前に、自分の弟子たちの禅に対する理解の程度について「慧可は髄を得、道育は骨を得、尼総持は肉を得、僧副は皮を得ている。(*一番理解が深いのは慧可である)」と評価しています。
少林寺の二祖「慧可」が腕を切って仏法を求めた話
「1」
少林寺の達磨亭の前には「立雪亭」と書かれた石碑が立っています。
達磨亭はどうして立雪亭とも呼ばれているのでしょうか。
達磨亭の門の両脇には「深夜雪没神光膝、断臂求法立雪人」と書かれています。
そして、この建物の中の本尊がまつられている仏壇の上には、清朝の乾隆帝が書いた「雪印心珠」という額が掲げられているのですが、 禅宗の二祖である「慧可(えか)」が、この場所で自らの腕を切って仏法を求め、禅門の正統を確立したことをあらわしているのです。
「中国仏教」という本の「慧可(えか)」の段には、次のような記述があります。 「慧可」の禅法を語る時、中国の人々は必ずその「断臂求法」の伝説を思い浮かべます。
「宝林伝」という書の第八巻にある「慧可碑」には、慧可が達磨大師に仏法を求めた時、 達磨大師は“仏法を求める人は、自分の身体を身体にすることはできない。自分の命を命にする事はできない」と言いました。そこで、慧可は雪の中で何日間も立ちつづけた後、自分の腕を切り落として、その決心を示したのです。達磨大師は慧可の決意を知って、 仏法を教えることにしたのでした。
この「雪中断臂」は禅宗の有名な話しとして広く伝えられています。
「慧可が達磨大師に教えを請うた時、なぜ自分の左腕を切ったのでしょうか?
「慧可」篇には、さらに二祖の慧可は姫光という名前で、虎牢(現在の河南省 yang県 水鎮)の人であるとあります。法名は神光とも呼ばれています。 慧可は子供の頃から学問好きで、20歳にもならないうちに様々な書物を読んでいました。
また両親が非常に熱心な道教の信者であったため、その影響を受けて道教を信じ、特に老子と荘子を好んでいました。 20歳になってから、少林寺に来、バッダ和尚について小乗仏教の教義を学び、バッダの優秀な弟子となります。
彼はバッダの命を受けて中国各地へ説法の旅に出て、南京まで至りました。
当時518年ごろの事ですが、バッダが亡くなってから数年たっており、慧可は四十歳をすぎていました。 ある日慧可が南京の雨花台で信徒に向かって小乗仏教の教義を教えている時に、偶然達磨大師の教えを受けて、 大乗仏教の教義を信奉しようと突然悟ったのです。
そこで、達磨大師とともに少林寺に戻り、寺の裏にある五乳峰のchi・you洞で達磨大師が九年間面壁したとき、 慧可はずっとその側で守りつづけました。
しかし達磨大師は、この博識で小乗仏教を良く学び知識の深い慧可を全く信用しようとはせず、 つかず離れずで相手にしないという態度を取りつづけます。一方慧可はまったくあきらめず、 毎日大勢の僧侶達に混じって、大乗仏教の勉学にいそしんでいました。
達磨大師が経典について講義を行うとき、いつも慧可が聞く事を許可しませんでした。 しかし、慧可はそのことを全く気にせず、自身の学びが浅く、良くない物が数多く残っていると考えて、 だから師である達磨大師から認められていないのだと言うことを、よく理解していました。 そして、慧可はますます大乗仏教の禅宗を一生懸命学んでいったのです。
「2」
ある夕暮れ、「慧可(えか)」は師である達磨大師の後ろに座っており、大乗仏教の心理について黙想していました。
そこに一群の暴徒が進入してきます。その中の一人は刀を抜き、達磨大師に向かって「この南から来た野蛮人、 ここでこんな事をして人心を惑わすんじゃない。お前が嵩山を立ち去らないのなら、俺が成仏させてやる。」と怒鳴りました。
暴徒たちによる、このようなひどい仕打ちに対しても、達磨大師は微動だに動こうとはしませず、手を合わせて「阿弥陀仏」と唱えはじめました。 この暴徒たちは、脅しに対して達磨大師が相手にしないことを目の当たりにして、さらに怒りをたぎらせます。
そして、手にした刀を振り上げ、打ち下ろそうとしたその瞬間。慧可が日頃の鍛錬で鍛えた腕を使い、 両手で下に敷いていた円座を刀を持った暴徒の一人に投げつけ、事無きを得ました。
そして、奪い取った刀を持って、 暴徒たちに「ここを騒がす奴は、私があの世に送ってやる」と怒鳴り、手で抑えつけた暴徒の一人に刀を向けるポーズをとったのでした。 暴徒たちは形勢が悪いのを見て取り、全員がひざまずいて許しを求め、こそこそと逃げ去りました。
このとき、達磨大師は慧可に対し、「僧侶になるには、身体を以って身体となさず、命を持って命となしてはならない。 きょうのこの事から見て、お前は大乗仏教の僧侶となる事を許します。」といって、初めて仏教に関する話をしました。
慧可はこの言葉を聞くや、うれしさの余り何度もひざまずき、手を合わせて「阿弥陀仏」と唱え、達磨大師を拝んだのでした。 達磨大師はこのとき、慧可の法名を「僧可」としました。そして、ここから達磨大師は慧可に帯刀して仏教を学ばせ、仏法を護らせたのです。 慧可はこうして、ようやく大乗仏教・禅宗の弟子となったのでした。
「3」
「中国仏教」という本の中の「慧可(えか)」篇には、次のような記載があります。
慧可は達磨大師について仏教を六年間学びましたが、その後禅に対する一定の見識が完成されました。
ある日慧可がほかの人の質問に対する回答を詩にして便箋に書いていたところ、達磨大師がやってきて、その詩を見ました。その詩には「上から教えられた教義や真理は瓦礫のように意味のつまらないものだ。それよりも、自然に悟って得たものこそ価値のあるものである。生身の身体と仏の間には、なんの違いもないのだ。」といった内容の事が書かれてありましたが、これは簡潔にあらわされた禅の精神です。
この詩には達磨大師が日頃から言っている「凡聖等一」や「理入」といった根本的な教義であり、特に「生身の身体と仏の間には、なんの違いもない」というくだりは、達磨大師の「心法」を正しく伝えていました。
この詩を読んで、達磨大師は微笑みながらうなずいたのでした。達磨大師は、慧可の得た悟りと禅に対する理解に対して、心の中で褒め称え、それまでに法名「僧可」を改めて、「慧可」としたのでした。
しかし、慧可は非常に謙虚で警戒心が強よかったので、達磨大師に認められた後も、道教や儒教、小乗仏教などの教えを大乗仏教の中に混在させてしまっているのではないかという事を恐れて、弟子たちに仏教の教義を教えたりはしませんでした。
「4」
伝説によれば、ある寒い冬の朝、「慧可(えか)」は師である達磨大師に仏法を求めにやってきました。達磨大師は達磨亭でまさに座禅を行っているところだったので、慧可は合掌をして外で立って待つ事にしました。午後になり、また夜半になっても、達磨亭の扉は開かれませんでしたが、慧可は微動だにせず待っていました。夜半になり、身を切るように冷たい風が吹き、空からは大雪が降ってきます。しかし、慧可は声も出さずに、静かに立っていたのでした。それから、二日目の朝になったとき、達磨大師はやっと座禅を終えて目を開き、慧可を見ましたが、このとき雪は慧可の膝にまで達していました。達磨大師が、そこで何を待っていたのかと慧可に尋ねたところ、慧可は「師に仏法を求めるためにやってまいりました。」と答えます。達磨大師はこの話しを聞いてぶっきらぼうに、『空から赤い雪が降らない限り、お前に仏法は伝えない』と言いわたしました。慧可はこの話を聞いて、達磨大師は慧可の持つ罪悪の種が除かれておらず、禅宗に対して良くない考えが浮かぶのではないかと言うことを恐れていることを知ります。そこで慧可は戒刀(昔、僧侶が持っていた懐剣)を取り出すと、左腕を切り落として、自らが持つ罪悪の種を捨て去った事を示したのでした。慧可の腕が切り落とされたため、亭の前は血で染まり、慧可も気を失って倒れてしまいました。伝説によると、観世音菩薩が現れ、赤いあや絹の布を広げて寺全体をおおったと言われています。達磨大師は野山が赤一色に染まったのを見て、あわてて慧可を僧房に入れたとのことです。達磨大師は慧可の仏法を求める心にいたく感動し、衣鉢と法器(仏教で使う道具)を渡します。つまり慧可が、自分の考えを伝承するものであると認めたのでした。こうして、慧可は禅宗の第二代の祖師となりました。
「5」
慧可が自らの腕を切り落とした後のことを伝説では次のように伝えています。達磨大師は慧可に仏法を伝えたあと、達磨大師自ら慧可を鉢孟峰まで送り、怪我の養生をさせました。鉢孟峰は松や柏の木が生い茂る緑豊かな所で、養生には最適な場所したが、困ったことに水場が一つもありませんでした。達磨大師が手にした錫状態で地面を一突きすると、そこから水があふれて泉になりました。達磨大師が鉢孟峰を下山したあと、供としてついてきた慧可の弟子「覚興」は、その泉の水がひどく苦いことに気付きます。そこで覚興は、達磨大師にもうひとつ泉を作ってもらおうとして、山を下りようとしたのですが、慧可は「苦いものを口にしなければ、甘いという味覚を知ることは出来ない。せっかく師がくださった水だから、いただくことにしよう」と言って、覚興をとどめたのでした。慧可と覚興は、その苦い水を飲み、泉のそばで柴を拾い、草を刈り、小屋を作って住まいました。鉢孟峰には、この二人しかいなかったのですが、慧可はそれでも、さらなる静けさを求めて、頂上近い崖のそばにある、平らな岩の上で座禅を組むことにしました。当時慧可は、自分の仏教に対する理解がいまだ正しくなく、修行の妨げとなる邪心が存在することを恐れ、その邪心を取り除こうとし、また傷の養生に専念していました。
「6」
ある日達磨大師が鉢孟峰へ行ったところ、慧可が岩の上で、片手を胸の前に合掌の形で置き、座禅を組んで瞑想している姿を目にしました。
達磨大師は慧可に声をかけず、その側に立っていました。どれぐらいの時間が経過したのでしょうか、慧可がようやく瞑想を終えて目をあけると、そこに師である達磨大師がいたので、慧可はすぐに岩の上から降りて、地にひれ伏しました。達磨大師は慧可を助け起すと、ひじの怪我を見て、「まだ痛むのか?」とたずねられました。慧可は「私はこの清浄な地に来て、悟りを求めておりました。仏心に専念しておりますので、痛みはありません。」と答えました。
達磨大師はその答えを聞いて、満足げにうなずきながら、「水はうまいか?」ともたずねられました。慧可は「おいしゅうございます。ひどく苦いものを口にしなければ、悟りを得た人間にはなれません。仏典にもいうではありませんか。人の世の苦しみは無限であるが、悟りの場である彼岸は、実はすぐそこにあるのだと。」と答えました。
「7」
また、数日が過ぎ、二祖「慧可」の腕の傷も次第に良くなって行きました。そして、それにともなって武術の練習も始め、顔色もじょじょに良くなってきたのでした。
ある日、達磨大師が、山(鉢孟峰)で修行と治療を続ける慧可を訪れたのですが、慧可の怪我の状況を見て、うれしげに「よろしい、よろしい。苦味と辛さを味わい尽くして、甘さと酸っぱさが来た。傷が治って健康になれば、仏情はますます盛んになることだろう。」
達磨大師は下山するに当たって、又新しく泉を作りましたが、その水は酸味がきついものでした。慧可の弟子「覚興」は、顔をしかめましたが、敢えて何も言いませんでした。しかし、慧可は、またもやうれしげに「世間のすっぱい俗水を飲み尽くせば、すっぱい(=辛い思いをする)世俗の人は永遠に作られなくなるだろう。素晴らしいことではないか。」と言ったのでした。
「8」
あっという間に冬から春になり、鉢孟峰にも春風が吹くようになりました。
二祖「慧可」が平らな岩の上で座禅を組み、入定(にゅうじょう=座禅で精神統一し、気息がととのうこと)状態にあった時、耳元で突然偈語(げご)が聞えました。
「悪の根元は煉魔台で取り除かれ、苦味、辛味、酸味が尽くされると、甘味が自然とやってきた。仏心が正しければ、人は敬愛し、まさに春に再び花開くのにふさわしい。」慧可が目を開いて見ると、達磨大師が満面に笑顔を浮かべて、慧可の前に立っていました。二祖「慧可」は身を起こし、頭を打ち付けて礼をします。達磨大師は慧可を助けおこすと、共に岩の上に座りました。
達磨大師は、ふところから「楞伽経(りょうがきょう)」全四巻を取りだし、慧可に渡しながら「そなたの身にあった魔気は出し尽くされ、仏心は正しくなっている。「楞伽経」に専念して学ぶべきである。」
また、達磨大師は、「私は中国においては、この経典だけが、博愛を行うものは実践にもとづき、自ら悟りを得るものだという精神があると思っている。精神のかなめが外に現れ、精神の光が飛翔した!今後、そなたの法名は”神光”と改めるが良い。」と、何度も間を置きながら、ぽつぽつと語った。
慧可は達磨大師から仏典と法名を賜った後、共に三つの泉のところへ行ったが、そのどれも枯れていました。達磨大師が錫状で地面をつくと、第四番目の泉がこんこんと湧きでたのでした。
「9」
達磨大師が鉢孟峰を下山するのを慧可が見送り、自分達の住む小屋に戻ってきた時のことです。慧可の弟子「覚興」が水の入ったお椀をささげ持ち、にこにこ笑いながら「お師匠さま、甘いです!大師さまが今回くださった水は、本当に甘いです。お師匠さまも、どうぞお飲みください!」と言いました。
慧可はお椀を受け取って飲んだ後、微笑んで「苦味や辛味、酸味を味わい尽くしたからこそ、甘味がわかるのだよ。」と言ったのでした。
この日から、慧可は昼も夜も「楞伽経(りょうがきょう)」の勉強にいそしみ、あらゆる点から突き詰め、理解を深めたのち、漢文に翻訳します。そして、この漢訳「楞伽経」を三祖「僧燦」に伝えましたが、これによって禅宗は途切れることなく続き、次第に発展を遂げていったのでした。慧可と僧燦は、中国仏教史上有名な「「楞伽師」とされています。
「10」
伝説によれば二祖慧可(えか)は、後に「神光祖師」と名乗り、鉢孟峰で「楞伽経(りょうがきょう)」を苦しみながら勉強し、大乗仏教の悟りを得ます。そして後漢第2代の明帝のもとにやってきていた、インドの僧侶「迦葉摩騰」と「竺法蘭」が、嵩山の玉柱峰のふもとに中国初の寺院「法王寺」を建てました。そこでは金の蓮が咲いたと伝えられています。現在、大雄宝殿の前には今も「紫金蓮池」があり、池に咲く金蓮は他の場所に移す事ができず、移せば花の色が変わってしまいます。
また、慧可が二回目に南京の雨花台で経典の講義を行った時、「楞伽経(りょうがきょう)」のエッセンスを強く広めたので、信徒が倍増したばかりでなく、その素晴らしい説法に天が応えて、天から玉が雨のごとく降りました。こうして、慧可が説法を行った場所は、この故事にちなんで「雨花台」と呼ばれ、今も美しく透通った「雨花石」が産出されています。
今まで述べてきたお話は、広く人々に伝わっている有名な伝説です。少林寺南側にある鉢孟峰には、今も「にがい、辛い、酸っぱい、甘い」四つの味の水が出る井戸と、二祖「慧可」が怪我の養生を行った断崖などの遺跡が残っています。
少林寺、禅宗の三祖、四祖、五祖の物語
少林寺には達磨大師の像があります。 両側には達磨大師からの四代の弟子である、二祖の慧可、三祖の僧サン、四祖の道信、五祖の弘忍がいます。 二祖慧可が、達磨大師に入門を願う時、自分の左腕を切って決心を表わし 弟子入りを許されたということは前にお話ししました。 そうして、達磨大師の教えを受け継いでいきましたが、 ではそのあと、三祖、四祖、五祖にはどういう物語があるでしょうか。
慧可は、自分の学問とは別の考えを持つ、道教の道コウという人からすごく批判をされていました。 道コウは、慧可のお経の時に、自分の弟子を送り込み、わざと難しい質問をして慧可を困らせようと試みます。でも実際に弟子は慧可のお経の間、質問をすることはありませんでした。逆に、心から尊敬の気持ちになり皆は慧可の弟子になってしまいます。 すると、道コウは、また、慧可の妨害をします。
ある日、慧可は坐禅をしている時、急に窓の外で何か戦っている音がして目を覚ましました。 「お坊さん、早く出てください」という声がしたかと思うと一人の僧が武器を持って現われました。 慧可を殺そうとしている人から守るため、その僧は慧可を逃がそうと戦っていたのです。
何日か後、慧可を助けたのは新しい弟子となった僧サンだとわかりました。 そしてそれから僧サンは40年以上慧可のもとについて、少林寺のお経と仏像を守っていました。
ある時、僧サンは、のちに三祖庵とよばれる場所を慧可について歩いていました。 僧サンは慧可に相談します。「私の中の罪悪を無くすにはどうすればよいのでしょうか。」
慧可は「あなたの罪を私の前に持って来れば、私はあなたの罪を取り除いてあげましょう。」 と言います。僧サンは、考えました。でも、いくら考えても、どうやって自分の罪を見せればいいのかわかりません。
すると慧可はすぐにこう言います。「あなたの罪はどこかを探せば見つかるのでしょうか。実際は、もう探さなくていいのです。私がすでに取り除いてしまいました。」罪は形あるものではなく空の状態であること。僧サンはこれを聞いて悟りを得ました。
そして二祖慧可から達磨大師の経を受け継ぎ、僧サンは三祖となりました。
三祖僧サンはあちこちに出掛け経典を話します。 ある時、西安のお寺での講義の時、僧サンの禅学に興味を持ったその中のひとりが是非弟子にしてほしい申し出ました。
その人は僧サンに三年間ついたあとで自分の考えを僧サンに話しました。 空や常などについての仏教の理解を認められ、道信いう名前をもらい禅の四祖となります。
道信は、湖北省黄梅県に行った時、一人の子供に出会いました。 その子は、目が不自由な人に殴られているところでした。そしてその子のお父さんも来て、子供の顔を殴りました。すごい怪我になってしまうのに、子供はずっと黙って弁解も何もしません。涙も流して訴えるということもしません。 見ていた道信は慈悲心から、これはどういうことですかと聞きました。 すると、目の不自由な人の言い分は、自分の服はある悪い人に盗まれた。そこで子供は、自分の家からお父さんの服を持ってきて、目の不自由な人に着せてあげたのですが、目の不自由な人は、子供が服を盗んだと思い込み「なぜ、あなたは私の服を盗んだのですか」とすごく殴ってきました。そうするとそれを聞いたお父さんも子供を叱って殴ります。
実際は、この子供は非常に誤解されている状態です。でも弁解もしないし、涙も流さない。普通の子供はすぐ涙が出るというのに。 道信はこれを見て、この子は慈悲心もあり、忍耐力もある、先天的な仏性 純粋な心を持っていると 思います。そしてすごく感動して、ぜひ仏教を教えたいと、両親に話します。 でも、両親はまだ小さい子供を手放したくないので、道信はこの黄梅県に住むことにしました。 子供は、昼間は両親の農業を手伝いながら、夜は道信について坐禅をし仏教を学びました。
名前は、忍耐力があるということから弘忍になり、禅宗の五祖になりました。
弘忍が五祖になってから20何年かの間に700人もの弟子ができました。弟子たちは、修行として農作業などの労働もしました。
仏教はできるだけ世間から遠く離れた山や野の中で自分で働き、自分で食べていく事とするこの生活を「農禅生活」といいます。農作業をしながら修行する生活は、五祖から始まりました。
唐の時代の皇帝は弘忍に何度も使者をむかわせ、高い地位も家も与えると約束しました。
しかし五祖弘忍は断り続けました。 弘忍が臨終の時、弟子にこう言いました。私は、一生の間に大勢の人達に教えてきましたが、私の教えを伝えることができる者は10人だけです。
それが、六祖慧能と神秀たちを始めとする者たちで道信が亡くなった後、皆は各地で教えを伝えていきました。そして弘忍の仏法と禅宗は全国に広まりました。
達磨大師の禅宗は、弟子に受け継がれていきましたが大きな流派となっていったのは五祖からだったといえます。達磨大師の時代には、まだあまり大きなものではありませんでした。後に、慧能は南宗禅、神秀は北宗禅の祖となります。
少林寺、六祖慧能15年隠身の物語
少林寺発祥の大乗仏教の禅宗の教義は、六祖の改革によって、中国人の心に合うようになりました。
だから六祖は歴代の中で皆に有名な師と言われています。
少林寺の六祖には、六祖乱法の他にも、出家が後で先に祖師になったという話があります。
六祖となった経緯は、慧能が書いた詩が神秀よりも五祖から高い評価を得たことによります。
慧能は五祖弘忍の後を継いで、禅門の六祖になりました。その後、五祖に見送られ揚子江を渡り南の方に走りながら向かいました。二日目の朝、慧能は前に進んで歩いていると、急に後ろから大きな声がします。
「南からきたお坊さん、どこへ行くのですか? 私は追いかけてきました。」
後ろを振り返ると、もともと将軍だった慧明が急いで追いかけてきます。この人は、人の命を奪ってしまったことをお坊さんになって罪を償おうとしています。
慧能は、こうやって追いかけてくる人たちが、五祖から受け継いだものを争って奪おうとしてることをわかっていました。後ろから来るその人は、1日百キロkmも走れるし腕は何百キロの重いものも持ち上げられる強さを持っています。自分が戦ってもかなう相手じゃありません。
そこで慧能は、五祖からもらったお坊さんの木綿の服を、大きな石の上に置いて自分は草の中に隠れます。五祖から受け継いだものは、形として無くなって証明することができなくても本当の禅の法はもらっています。だからこうすれば大変なことには巻き込まれなくて済みます。
追いかけてきた慧明は石の上の袈裟を見てこう思います。
「この達磨大師の袈裟はあちこち破れているし、なんだか優れたものにも見えない。この服では外にも出られない。」と諦めました。
でも、自分は何の為に来たのか、そこで思い出したので慧能の名前を呼んで話し掛けます。
「わたしは、この袈裟を奪いにきたわけではなくて、法を習いたいと思って来ました。」この言葉を聞いて慧能は外に出ます。「もし、あなたが本当に仏法を習いにきたのなら、自分の心の欲望を止めて、競争の心は止めて下さい。何も思わず考えずにいれば、私は話しやすいし教えることができます。」そうすると少しして、慧明はなんとなく雑念は押さえました。
慧能は、こう話しました。
「今、あなたの欲望は止まった。でも少し自分のことを思い出してみてください。自分の本来はどういうものでしたか。」慧明は聞いて少し考えると、「自分はもともと欲が深い、色々なものを手に入れたい。これは武の人です。これでは仏教の無と合わないです。」そして少し溜息をつきながら、「私は黄梅県で武術を長い間習ってきたが、こういうことは全然悟ってなかった。」こう話しながら、すごく恥ずかしく思い慧能に拝師します。そして慧能を守る人になりたいと希望します。
そして慧能を南に送り、後を追いかけてくる人達には「慧能は別の道に行きましたよ。」と言って、他の道に行かせて、慧能が見つからないようにしました。この追いかけてくる人たちは、もともとは神秀の生徒です。神秀は、禅門の六祖になれなかったので、この人たちはいくら頑張っても七祖、八祖と跡を継いでいくことはできない。だから慧明をそそのかして慧能を殺すように仕向けようとします。
慧明はその人達に向かって、仏教の十善を話し「こういうことはいけないです。」と言いました。
神秀の弟子達は慧明に慧能を殺させるのは無理だと思いました。そこで高いお金をつみ、軽功ができて飛ぶ猫と呼ばれるチョウを殺し屋として雇いました。
慧能は、商人や農民の中にあちらこちらと隠れながらも殺し屋チョウの危険を感じていました。
ある日、山の中を歩いている時に前の方から、泣いている声がします。見るとひとりの若い女がお墓の前にいました。死んだだんなさんのひとりだけのお葬式のようです。六祖慧能はこれを見て、なんとなく仏教の臨界の苦しさを感じました。
そこへ急に大きな一頭の虎が現われました。虎は若い女に近寄って危険です。
六祖の慧能はすぐ自分の手で虎の首を押さえ、右の拳を打って押さえました。
そうすると女の人が急に「ワーッ」と叫んでます。別の虎がもう一頭現われました。
慧能はこの虎も捕まえて持ち上げ、先ほどの虎とぶつけました。
二頭の虎は殴られぶつかって最後は逃げてしまいました。
ここには、猟師達の仲間がいました。慧能は身分を隠してそれに参加することにしました。ここにいる方が、殺し屋の目もくらませられるし安全だと思ったのです。慧能は、私は食事も作るし、虎が来た時には私が戦いますと申し出ました。そうするとその人達は皆喜びました。皆が一番苦手なことがこの二つだったのです。そして皆さんに受け入れられ、慧能は生活を始めました。ただひとつ困ったことがありました。皆は、捕まえた動物の肉を食べるのが普通だったのですが、慧能はお坊さんですから一緒にするわけにはいきません。皆には、自分は菜食者でお肉を食べたら病気になると話し、野菜だけを食べることにしていました。
そうして暮らしていたある日、慧能が外を歩いていると、子供が鰐に襲われようとしている危険な場面に会いました。3mくらいもの大きさの鰐が子供に迫ろうとしています。慧能は自分の命をかけて、鰐の首を蹴って子供を助けました。子供は助かったのですが、鰐のしっぽが慧能の腰とお尻にぶつかって、慧能は怪我をして倒れてしまいました。
そのあと皆さんに助けられ気づくとある家にいました。前に慧能が虎から助けたあの女の人の家でした。鰐から守った子供のお母さんだったのです。慧能はすぐ起きて帰ろうとしますがまだ動けません。周りのみんなが呼んでくれた医者は「動いたら骨が危ないです。」まだ残っていてくださいと言います。慧能は自分は怪我をしたけどお坊さんとして当然のことをしたので後悔はしていませんでした。
その女の人にとっては慧能は、自分の命と子供の命まで助けてくれた恩人です。自分は慧能のお嫁さんになりたいと思ってるようです。周りの人も、これは天の神様の意志により二人には夫婦の縁があると言い出したので、慧能は大変でした。若い人同士なのだから是非結婚したらいい、などと言われます。みんなは、慧能が僧だということを知らないのです。もしここで身分を知らせてしまうと、殺し屋に見つかってしまいます。そういう事情から非常に苦労して何とか結婚を断りました。どんな時にも六祖慧能の禅の心は動かすことはできなかったのです。
そうしてあっという間に15年の月日が経ちました。身分は隠しながらの普通の人としての生活の中で、自分には六祖の姿勢を要求することを忘れませんでした。ある日、広州の法性寺で管長がお経を話すところに慧能はいました。そこで、ふたりの僧侶が旗を見て違うことを言い始めました。ひとりが、旗は風に吹かれて動いていると言う。もうひとりは、違います、旗が動いているのですと言う。
そこで六祖慧能は、「風でも旗が動くでもなくてこれは二人の心が動いています。」と言います。するとこういう言葉に周りの人は皆驚きます。印祖管長は、非常に尊敬してこう聞きました。
黄梅県から来た禅宗の伝法人とはあなたのことでしょう。そして皆は六祖に大きな礼をしました。六祖は出家の礼式をし、このとき正式にお坊さんになりました。六祖の身分が知らされるとすぐに慧明と弟子達も皆集まって来ました。
殺し屋チョウもそれを知り、六祖の部屋に剣を持って忍び込んできました。ところが、足を踏み入れた途端に「あなたは何をしているのですか。」と慧能の声がします。チョウは少し驚き、でもすぐに気を取り直して「あなたは私が何をしにきたかわかっているようですね。では隠さず言いますが、今夜は私はあなたの頭を斬りにきました。」と告げます。
それを聞いて六祖は「あなたは200両の銀で雇われて私を殺しに来たのなら、今日は私は、もっと大きなお金を渡しましょう。これは金です。そうしたら私の頭はそのまま残しておいていいですか。金は机に置いてあります。あなたはそれを持っていきなさい。」
チョウはそれを聞いてすごくびっくりして身体が震えてしまいました。「なぜあなたは私の事をそんなに知っているのですか。」六祖は「あなたは早く金を持って逃げて下さい。もしそうしないと
あなたは多分帰れなくなると思いますよ。」チョウは、もう金などもらわなくていいから今にも逃げたい、早くここから立ち去りたい気持ちです。
ちょうどその時にチョウの名を呼ぶ大きな声が響き、元将軍の慧明の刀が首に向けられていました。チョウは「助けて!助けて!」と言います。六祖は「慧明、やめなさい。その人は帰してあげましょう。」と言いました。
チョウはその名を聞いて、あの将軍だった慧明に気づきました。そしてチョウも六祖を守る人になります。その二人は後に六祖の得意弟子になりました。
少林寺にまつわる話、唐太宗李世民が南の少林寺を建てた話
少林寺という映画でなく、南北少林という映画が上演された時、たくさんの人が南の少林寺に興味を持ってこの話を聴きました。 考文帝により嵩山少林寺が建てられ、李世民により福建省蒲田に南の少林寺が建てられたので、 少林寺は北と南にひとつづつありました。 西暦629年の話です。
李世民は思い出していました。 洛陽で13名の僧達により救出されたこと、そしてその時自分を背負ってくれた曇宗和尚のことを。 その後、曇宗和尚の師父である善護和尚から熱意の招待を受け、 当時の首相リショウと大将軍シンソホウらと少林寺を訪れました。 その時、曇宗は管長になっていました。 その夜、李世民は少林寺に泊まり、曇宗管長と夜遅くまで話をしていました。
李世民には心配なことがひとつありました。南の福建省では、唐に負けて海に逃げた軍隊の部下が、 反乱を起こし海賊になっていました。海から陸に上がってきては盗みなど悪いことをしていました。 政府から軍隊を派遣し捕らえに行くと、海賊はすぐ島に逃げますが、軍隊が帰るとまた悪いことを 繰り返します。 李世民は、軍隊を派遣するよりも一つの僧兵をそこに組織して、海賊を捕らえることを思いつきました。 そして、南の少林寺を建てることにより、文と武の両方を使えば悪い人達の心を納められるだろうと 提案しました。
曇宗管長は、この意見について聞かれるとにこにこしながら、僧兵たちが福建省に行って 善いことするのは賛成ですと言いました。 李世民を救出した13名の僧の中に道広という人がいましたが、彼は福建省の人間です。 曇宗管長は、僧兵のリーダーは彼が一番良いと思ったので、道広を呼んでその話をしました。 道広は喜んで引き受けますと言い、管長は合掌しました。 早速、お寺の中から僧兵達を選び福建省に向かうことになりました。 3日間かけて行なった武術の試合の結果、最終的に選んだ五百の僧兵を道広は引きつれて すぐに南へ出発しました。 そして5年後、曇宗管長が善後和尚と「五百の僧兵達は今頃どうしているのでしょうか。」 などと話していたところ、玄関から「道広和尚が帰りました。」という声が聞こえました。 戻ってきた道広和尚とその二人の弟子をすぐに迎え入れ、皆で食事をしました。 曇宗管長は、「ここの場所では色々なことがすぐに聞こえますよ。さっきちょうど あなたたちのことを思っていたら、すぐにあなたが来ました。」と言いました。 そして5年前出掛けてからその後、海賊はどうなったのか道広の話を聞くことにしました。
道広の話では、海賊は2年前に政府に捕まり法の裁きを受けました。 善後和尚が「どのようにして捕まえたのですか?」と聞くと、 「地元の人達の協力のもと、少林寺の僧の武術の力により捕まえることができたのです。」 と答えた後、道広は何か考えているようでした。
実は、この嵩山少林寺に戻る時、福建省の地元の人達に 「このまま帰らないで是非残って欲しい」と言われたのです。 そこでまず、管長と自分の師父である善後和尚に話をして決めてもらおうと思ったのでした。 善後和尚は「もし、地元の皆さんが帰って欲しくないと願っているのなら、 仏教の弟子はどこでも自分の家ですから、必ずここのお寺に戻らなくとも、 その場所で他人を助けることは善いことではないですか。」と言い、 そして、管長から皇帝にお願いをして南にも少林寺を建ててもらえば、 そこに住みながら皆を助けられるし、良いのではないかと話しました。 善後和尚は、是非いい場所を選んで建てることを望み、 道広和尚はどういう場所がいいのでしょうと尋ねました。 曇宗管長はできるだけ嵩山少林寺に似た場所に建てるといいでしょうと言いました。 これはいい考えです、と善後和尚も笑って言いました。
そして今回のことを書にしてすぐに皇帝に報告しました。 もちろん皇帝は許可をしてくれました。 道広はすぐに福建省に戻り、2ヶ月ほどかけて管長の考えの通りの 嵩山少林寺に似た場所を色々と探しました。
そして、蒲田というところで南には秋刀魚が横たわるような形の山があり、 北は9つの蓮の花が咲く九蓮山という場所を見つけました。 道広はすぐに絵を描いて、帰ってから管長と善後和尚に見せると2人は喜んでくれました。 この絵は皇帝にも届けました。唐太宗もこれを見てすごく喜び、 南の少林寺を建てる為に政府からは大勢の人が福建省に派遣されました。 同時に、唐太宗はその南の少林寺の管長に道広を任命し、華厳・阿弥陀などのお経を授けました。
道広和尚は、皇帝の命令で南の少林寺が建つことをあちこちで福建省政府に伝えたので、 皆はこのことをとても重大に感じました。
この時、皇帝の命令の書には、少林寺のお坊さんを褒めたたえた言葉と、 南少林寺が建てられるいきさつについての言葉が全て書いてあり、 これは周りに非常に大きな影響を与えました。